須坂市立博物館だより 2025年度第1号

更新日:2026年01月16日

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須坂は歴史・文化・自然、そしてそこに暮らす人々など、様々な資源の宝庫です。

博物館は、とても身近な「もの」を展示していますが、ものには使用していた人の思いや地域の文化や特性が宿っています。

須坂市立博物館では、「人」「もの」「こと」をつなぎ、須坂から全国を考えることをめざしています。

須坂市立博物館の活動から、新たに分かったことなどを不定期で発信します。

2025年度企画展「音楽・版画・俳句を愛した須坂の人たち~文化・芸術へのまなざし~」から見えた須坂人の思い

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須坂市民歌誕生―清水弥平の日記から―

須坂市民歌制作に関わった人物のひとり、清水弥平は、音楽教師として須坂高等女学校(現須坂東高校)をはじめ、県内各地の小・中・高等学校で40年間教職に就き、退職後は須坂市公民館長を9年間務めました。また、市内常盤町に「泉園幼稚園」を開園し幼児教育にも携わりました。

須坂音楽協会の中心メンバーとしても活躍し、1947(昭和22)年にはバイオリニスト 諏訪根自子をはじめ有名演奏家を須坂に招いて演奏会を開催するなど、須坂の人々が音楽に触れる機会を積極的に設けました。
1956(昭和31)年、教員を退職した清水は須坂市公民館長に就任します。当時の須坂市公民館では俳句の会やレコード鑑賞会、青年学級や婦人学級など様々な講座が設けられ、市民が学び活動していました。清水は音楽分野の講座にも力を入れ、自らもレコードコンサートの解説役や歌唱練習の講師(写真2)を務め、音楽に触れ、楽しむことの素晴らしさを市民に伝えていました。
1957(昭和32)年、須坂市が誕生して3年が経った頃、市民から「須坂市の市民歌が欲しい」という声が聞こえてくるようになります。これをきっかけとして作られたのが「須坂市民歌」です。作曲は童謡「赤とんぼ」などで知られる山田耕筰、歌詞は一般から公募し、その歌詞の補訂を「大地讃頌」で知られる作詞家 大木惇夫が務めました。

市民歌が完成した1957(昭和32)年の清水の日記を見ると、市民歌のために市長・助役・教育長とも話し、山田耕筰やその仲介者らと何度も手紙や電話でやり取りし、時には上京して作成から完成、発表会と奔走していた姿を見ることができます。また、作成料や人間関係に苦労していた様子もうかがえます。その日記に、市民歌完成、発表会までの経過や思いを記しています。
5月1日、この日は清水が公民館長に就任してからちょうど1年の節目の日。その挨拶回りの中で当時の市長 上原吉之助と“山田耕筰氏の市民歌の件を語った”と書かれています。その数日前の4月28日には、「山田耕筰氏の市歌、この上ないが金に困る」と金銭面を心配している様子もみられ、これ以前から市民歌制作に向けて既に動いていることがわかります。
その後、歌詞は一般からの公募、その歌詞を大木惇夫氏が補訂するということが正式に決定し、7月、新聞等に須坂市民歌歌詞募集の記事が掲載され広く宣伝されました。
約1ヵ月という決して長くない募集期間でしたが、県内外から114篇の歌詞が集まり、8月末、集まった歌詞はすぐに山田氏へ送られます。一週間後、清水は上京し山田・大木両氏を訪ね入選・佳作を選出、入選は須坂西高等学校(現 須坂高校)教諭 南沢次勇氏の歌詞に決定しました。

入選作決定から約2週間の9月15日、山田耕筰から「早く楽譜を取りに来なさい。」と連絡が来ました。その3日後、清水は市長らと共に上京し、山田氏宅を訪ね、そこで生演奏で完成した市民歌を聴かせてもらいます。そして「自分の子供を須坂へやる」そう言って、山田耕筰渾身の一曲が須坂へと手渡されました。
須坂に戻った清水は、翌日公民館へ出勤後市民歌の入ったテープを再び聴き、作詞者の南沢氏、新聞記者、市職員などにも披露しました。

須坂市誕生から約3年、市民から上がった声をきっかけにして、須坂市民が心を一つにして歌える歌がようやく完成したのです。
市民歌生みの親、山田耕筰を須坂に招いての市民歌発表会を控え、公民館にて市民歌練習会が開催され、清水は、当時の須坂市議会議員 町田惣一郎をはじめ大勢の参加者に歌唱指導しました。
10月19日発表会当日。山田氏から事前に「悪天の場合、須坂へは行けない」と言われていた中、前日夜からの雨も止み、天気に恵まれました。山田氏が甥で歌手の高沢良明氏を連れて無事須坂へ到着し、午後6時から須坂小学校の講堂にて市民歌発表会が開催されました。

発表会の中で山田耕筰は「市民のみなさんの熱意によって立派な歌がうまれ、私としても快心の作曲ができた。歌を愛することは、平和を愛することであり、郷土を愛することでもある。この市民歌が市の発展につながり、歌いつづけられる事を願っている。」と挨拶しました。
集まった市民約3,000人、皆で歌い盛大に発表会が行われました。清水はこの日の日記に、山田氏を須坂に迎えられたことの喜びとともに「あゝ一日感謝の日だった」と綴っています。

発表会を終え、肩の荷が下りた清水は10月最後の日記をこう締めくくっています。
「十月も今日が最終日だ。市民歌で苦労をした、そして疲れた。仲介者の大切さや、困った時に人の情も深く知った。市民歌が広く市民をうるおして愛と力とに充つる市造りの根底となることを祈ってやまない。」

須坂の音楽文化の発展に大きく貢献した清水弥平。当館の2025年度企画展「音楽・版画・俳句を愛した須坂の人たち~文化芸術へのまなざし~」開催に向けた調査の中で、「須坂市民歌」は彼が様々な苦労を乗り越えたことによって生まれたものだと知り、この市民歌がこれから先も歌い続けられるよう、彼の思いや情熱を伝えていくことが博物館としての役割であると強く感じました。須坂市民歌をご存じの方もそうでない方も、今一度この曲を聴いてみてはいかがでしょうか。

(須坂市立博物館 学芸員 杉村奏依)

「須坂小唄」は、山丸組工場歌としてつくられたのか?

1923(大正12)年12月、関東大震災からわずか3か月後、震災の傷跡が癒えない東京帝国ホテルで、中山晋平作曲の新民謡発表会が開催され、中山晋平・野口雨情による最初の新民謡の一つとして「須坂小唄」が披露されました。
この発表会には、発表会直前の知らせで急遽寿三郎の子息で山丸組東京支店長の越泰蔵が出席しました。

“須坂小唄”は新民謡として全国に発表された後、山丸組金丸製糸所で発表会が催され、あわせて須坂町の日本舞踊家が振り付けし、須坂町の中村蓄音機店(現中村時計店)や日本蓄音機製造株式会社によりレコードが製作・販売され、須坂の人びとや北信地域に広がり、今も須坂の夏祭り“カッタカタ祭り”などに使用され、市民に愛されています。
大正12年前後は、須坂の製糸業全盛期ともいえる時期で、製糸工場には6,000人程の工女が働いていました。工女さんの他にも工男と呼ばれた男性や繭・糸買いの人びと、工場で使用する野菜や魚そして酒や味噌、工女さんたちの履物や着物、化粧品や小間物を商う店。
たくさんの人たちが行きかう街中には、洋食・飯屋・料亭などの飲食店、旅館や劇場など、製糸業にまつわる、あらゆる商いが営まれていました。

工女さんの労働は、現在の雇用契約にあたる書類から14時間に及んだこと、朝昼晩の食事も現在のような決められた休憩時間は確保されていなかったことがわかります。
現代人からすると当時の労働条件は、過酷・劣悪ですが、当時の農家では、日が昇る前に仕事をはじめ、日が沈むと外仕事を終え、夜は灯火の下で内職するのが当たり前の生活でした。
工場労働では、三度の食事が確保され、給料が支払われることは、女性の働く場の少ない時代ではたいへん良い条件だったのです。ただ、工場と寄宿舎を行き来し自由時間の少ない仕事の中で、ひと時の息抜きとして替歌のような歌が工女さんに広がっていました。しかし、低俗な歌が多く、中には子どもに聞かせられないようなものもありました。
この現状を憂いた教育者でキリスト教徒の清水弥平は、のちに発刊する自叙伝「私の歩み」の中で、製糸工女のようすを次のように記しています。
「休日に着飾った工女さんの群れは町をうめた。但しその会話のきたないこと。情けないと思った。ある日工場のわきを私は通った。丁度休みの時間か、大勢窓から顔を出して、私を冷やかした。穂高の清浄な芸術の町に比し、私は悲しんだ。(後略)」

須坂町では中小たくさんの製糸工場が操業し工場の隣家では“下品な歌は新婚さんに聞かせられないので、塀を高くした”と伝わるなど、清水弥平が記した当時の工場のようすは、清水が触れたであろう須坂町最大の製糸会社“山丸組”だけの問題ではありませんでした。
清水弥平は、この状況を変えるべく山丸組本部の門をくぐり、山丸組社主越寿三郎の面会を望みますが、寿三郎の三男泰蔵と面会し「国の生命をつなぐ生糸の生産は尊いから、うんと金儲けをなさるのは当然だが、この労力はやがて人の子の母たるべき責任ある婦人の力だ、どうか工女さんの先々を考えて、教養ある婦人に育ててほしい。と注文した。」と記しています。
清水弥平が、工女さんの未来を考え、山丸組に諫言したことで、清水は工女さんの唄の講師として招かれ、工場で工女さんが読む図書の整備などにも貢献し、また、工場内へのピアノ設置が工場主越寿三郎により実現しました。
また、清水の諫言から“工女さんたちが口ずさむ良い唄を”つくることになり、山丸組は人を介し、須坂ゆかりの松井須磨子と関係が深かった島村抱月の書生から当時人気の作曲家になっていた現在の中野市出身の中山晋平に依頼し、作詞を野口雨情が担当しました。

野口と中山は、当時新しい地方の唄を生み出すために全国を佐藤千夜子(佐伯雅子)と共に旅し創作を模索していました。
1922(大正11)年には、須坂を訪れ、臥竜山や工場などを視察し、「カッタカタノタ」の歌詞が織り込まれ、製糸工場をイメージさせる新民謡らしい、軽快な曲が制作されました。
須坂小唄が今も愛され親しまれているのは、レコードの制作・販売によるところが大きかったと言われています。
レコードには、中山晋平の伴奏、佐伯雅子(佐藤千夜子)の歌がB面に、A面には、須坂市上中町の中村蓄音機店(現中村時計店)が、須坂料芸組合の芸妓らの和洋合奏団を東京に伴った合奏と替え歌が吹き込まれています。
須坂町の人々が参加したレコードの販売は、日本舞踊家により振り付けされたことで、愛郷心をもって歌い踊ることのできる新民謡として、須坂の人びとに愛される唄になりました。
最初の須坂小唄のレコードは、日本蓄音機商会のニッポノホンから発売され、1927(昭和2)年には、山野楽器店から中山晋平民謡曲3.「須坂小唄」の楽譜が発売されました。
「須坂小唄」は、これまで“山丸組工場歌としてつくられた”とされてきました。
これは、1976(昭和51)年に発刊された、須坂市越寿三郎翁偉業顕彰会の「越壽三郎翁」の冊子(史料4)によるところが大きいと言えます。
再発行されたこの冊子は、越寿三郎の死後、1938(昭和13)年発刊の山口菊十郎著「越寿三郎翁」(史料5) の一部を抜き取り表紙を複製し、本文27頁の冊子として印刷されたものです。
本文前には山口菊十郎著版にはない「山丸組、工場歌として越家の生んだ須坂小唄」が加えられており、さらに巻末には、越寿三郎の須坂小唄への想いや、須坂小唄が今も須坂の人びとに愛されていることが記されています。
須坂小唄の制作背景について、山口菊十郎著の冊子より前に発行された、山野楽器刊「須坂小唄楽譜」の歌詞の頁をみると最後に「この歌は、はじめ製糸工場の工場歌としてつくられた」と書かれていますが、翌年昭和3年に発行された楽譜には、この記載はありません(史料6)。
1922(大正11)創業した山丸組工女養成所の教室黒板には、「山丸組場歌」が大きく板書されており、大正12年に養成所は山大製糸所に転換されることから、山丸組場歌は、須坂小唄制作以前に山丸組内で推奨され、歌われていたことは容易に想像できます。

あらためて、須坂小唄の歌詞を観てみると、歌詞の中には山丸組の名前もありませんし、製糸工場の仕事を唄った歌詞を読み取ることはできません。
一方で「山丸組場歌」を観ると「我が山丸の工場は いや年々に廣がりて 栄え行くこそ□□けれ」と、山丸組の繁栄を歌詞にしており、工場歌そのものと言えます。
「須坂小唄」は、「山丸組場歌」の後につくられたことは間違いないと言えますが、仮に同一時期、あるいは須坂小唄よりあとに「山丸組場歌」が制作されたとすれば、須坂小唄が町の人びとに広がり愛されているさなかに、「山丸組場歌」を制作し、工女さんに教えたと考えることは、とても困難です。
また、逆に「山丸組場歌」が既にあり、工女さんたちに教え唄うように指導していたのにもかかわらず、あらたに「須坂小唄」という山丸組工場歌を制作するとは思えません。
つまり、1.山丸組場歌は、須坂小唄制作の前に既に存在していた。2.山丸組場歌には、山丸組の繁栄が歌詞の中で歌われている。3.「須坂小唄」には、山丸組の呼称はない。4.山口菊十郎著「越寿三郎翁」には、越が須坂小唄の制作にかかわったことは明記されているが、工場歌としてつくったという記載はない。5.昭和3年に発行された山野楽器店の須坂小唄楽譜には、「工場歌としてつくられた」という記載は削除されている。6.須坂小唄のレコード制作は、須坂町の現中村時計店が自費で和洋合奏団を伴い東京で吹き込み“中村特選”の文字を入れて発売しており、中山晋平伴奏の須坂小唄はB面に、須坂小唄替歌はA面に収録されている。7.中村時計店のレコードに併せて、ニッポノホン盤としてもう一枚レコードが作成されている。8.当時越寿三郎は、東京都内に住居を構えており、子息は鎌倉の別宅に居住し、越寿三郎の出席は容易であったにもかかわらず、「須坂小唄」の発表会の山丸組への連絡は直前で、寿三郎ではなく、急遽東京支店の寿三郎長男の泰蔵が出席している。
これらのことから、「須坂小唄」は「山丸組工場歌」としてつくられたのではなく、野口雨情と中山晋平の新たな民謡“新民謡”第一弾として制作されたとすべきであるということが明らかになってきました。

しかし、山丸組や越寿三郎が 「須坂小唄」の制作に深くかかわり、野口雨情・中山晋平を須坂に招くための費用などを負担していたことは想像に容易く、越寿三郎の経営方針『ひとすじに 郷土の栄的として     けわし山坂 風雨に耐えて』のことばの如く、須坂町の繁栄に尽くした越の姿が浮かんできます。

須坂小唄は、越寿三郎や自ら経営する会社「山丸組」がその制作に深く関与していたものの、工場歌として制作されたものではなく、須坂という郷土に貢献しようとする越寿三郎の大きな経営理念に基づく業績の一つと言えるでしょう。 

(須坂市立博物館 館長 小林宇壱)

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