須坂の製糸業 その繁栄と衰退
製糸結社「東行社」の結成
幕末、安政の開港以降、生糸の輸出量は飛躍的に増大していきました。明治新政府は先進国へ追いつくために、富国強兵・殖産興業の政策を積極的に進め、フランス・イタリアから器械製糸の技術を導入し、明治5年(1872)10月に官営の富岡製糸場を開業しました。
須坂地方の器械製糸は青木甚九郎・遠藤万作によってはじめられ、明治8年5月、日本で初めての製糸結社「東行社」(大笹街道を経て横浜からアメリカへ生糸を輸出するという意味)が、須坂町に、10に足りない小規模製糸工場を集めました。
明治18年には「俊明社」が成立し、製糸結社は長野県の製糸業界の主流になっていきました。
明治22年には、両結社あわせ加盟工場102、工女数約3千500人に膨れ上がり、須坂は一大製糸業の町として発展しました。
製糸結社の役割とは
生糸は高級な絹織物の原料のため、その需要は景気の動向に左右されやすく、大部分が外国向けであり、輸出先に糸価の変動があってもすぐ対応できないため、うまく当たれば利益が大きいが、はずれれば莫大な損失をこうむりました。
この危うい器械製糸の経営をたくみに解決したのが、小規模の製糸業者が集まってつくった製糸結社でした。
糸価暴落による損失分も加盟の社員に分割することで倒産の危険から逃れ、さらに生糸を大口にまとめて出荷できるようになり、欧米諸国の大量需要に応じることもできるようになりました。
最盛期の須坂製糸業と山丸組製糸王国の成立
明治20年7月、後に製糸王といわれた越 寿三郎が山丸製糸所を春木町につくりました。その後、いくつかの製糸工場をあつめて山丸組を結成しました。山丸組は埼玉県大宮や愛知県安城にも製糸工場をつくるとともに、須坂の町内に次々と製糸工場を誕生させ、個人経営の製糸家としては全国にならぶものがなく、山丸組製糸王国と呼ばれました。
アメリカ合衆国では第一次世界大戦後の「大戦景気」により大量消費の時代を迎え、アメリカ婦人のシルクストッキングの需要が伸び、長野県から大量の生糸がアメリカに輸出されるようになりました。
明治・大正・昭和初期と岡谷とともに須坂は、生糸大国として発展し、今日見ることのできる蔵造りの建物はこの時代に建てられたものが多く、その当時の繁栄ぶりを私たちに語りかけてくれます。
県内外から集まった製糸工女たち
器械製糸が発展し、製糸工場の規模が大きくなると、それにつれ職工の数が多く必要になりました。
各工場主は雇用地域の範囲を他県まで広げました。なかでも新潟県出身者が多く、富山県や群馬県からやってくる工女もいました。
工女の労働は平均13時間
「夏冬3時に起こされ、そこらを掃いたり用意したり、製糸工場のランプ掃除やらされたなぁ。」「昼休みなんかてんでなかった。食べればすぐ仕事。夜食は7時ごろ、それからすぐまた仕事にかかって10時まで夜なべ…それでもえらいせつなくは思わなかった」これは須坂のある製糸工場で働いた人たちの体験談です。
大正12年の調査によると、全国の製糸工場では、作業時間が最長14時間、平均13時間、最短11時間でした。
賑わいの町須坂小唄の誕生
須坂の製糸業が全盛の大正時代には、工女たちは須坂全体で6千人を超えていました。
工女の多くは寄宿舎生活をしていました。長い一日の労働が終わると、上町・仲町などの菓子屋・小間物屋・下駄屋・呉服店などへ買い物に出かけ、工女相手の店として発展しました。
また劇場通りには須坂劇場があり、松井須磨子が公演で「カチューシャ」を歌いました(大正3年)。また東京や横浜から生糸の買い付け商人が殺到し、料理屋や芸姑屋が繁盛しました。
こうした繁盛振りを反映して、大正12年、中野出身の中山晋平の作曲、野口雨情作詞の「須坂小唄」が大流行しました。
はじめ山丸組の工場歌としてつくられ、東京の帝国ホテルで盛大な発表会が行われました。
「花の下で花の如き、工女の遊山」工女たちの運動会
工女たちにとって、運動会(いまの遠足に近い)は最大の楽しい行事でした。
明治44年(1911年)4月21日の信濃毎日新聞は、「花の下で花の如き、工女の遊山」という見出しで、東行社の運動会を大きく報じています。
須坂小学校の校庭に、東行社とそこに所属する16の製糸工場の工女など3千500人が集まり、優良工男女の表彰式のあと、音楽隊の演奏につれ臥竜山をめざして町の中を練り歩くという運動会でした。
山の上には模擬店が20以上もならび、歌って踊っての園遊会。この盛大なようすを見ようと見物人も集まり、工女にとって実に楽しいひと時でありました。
山丸組の運動会も4月24日に行われ、やはり臥竜山を舞台にして一日を楽しむというものでした。
このほか、山田温泉や渋温泉へ、1泊あるいは2泊の運動会へ行くところや、毎年芝居見物などを行うところもありました。
須坂器械製糸発展その3つの要因
須坂は長野県下では製糸業の後進地でした。それが明治10年代から岡谷とともに器械製糸が急速に発展し、明治18年には早くも諏訪地方についで器械糸の生産高が県下第2位になりました。なぜこのように急激な発展をしたのでしょうか。
- 百々川、松川、千曲川の支流がつくる扇状地が、桑の栽培に適し、原料の繭が得やすかった。
- 須坂の気候は降水量が少なく乾燥しているので繭の貯蔵に好都合であった。
- 町内の急な勾配を利用し、百々川からひいてきた裏川用水(道路に面した屋敷の裏を通るので裏川用水と呼ばれる)から水車動力を得やすく、その動力を用いて、穀商は油絞り商などの商工業者が大勢いた。
などの要因があげられます。
水車で発展した須坂の製糸
その後、穀商や油絞り商の人たちが、製糸業へ転換していきました。水車は、明治11年に74箇所、明治22年には101箇所に達しました。近隣の松代や中野などにくらべて、このように簡単に数多く水車による運動動力を得られたことが、器械製糸発展の大きな要素であったことは間違いないでしょう。
世界大恐慌と須坂の製糸業の衰退
昭和4年(1929年)10月、ニューヨークのウォール街で株価が大暴落し、世界大恐慌が起きると、アメリカへの製糸輸出にたよっていた須坂の製糸業は大打撃を受け、昭和5年6月、山丸組が倒産しました。それまで繁栄の一途をたどっていた須坂の製糸業は、一気に衰退の道をたどることになり、第二次大戦後は富士通など電子に代表される工業都市へと転換し、須坂地方の全耕地の60パーセントを占めた桑園は、りんごを中心とした果樹園に替わっていきました。
製糸業が須坂に残したものは
須坂における大正期から昭和初期にかけての時代は、製糸業の繁栄というだけでなく、多方面にわたって町の人々の暮らしをめざましく変えた時代でした。
大正15年は、須坂の製糸業が絶頂の時期で町全体が活気に満ちていました。3月に須坂図書館が開館、4月に私立須坂商業学校開校、6月に須坂~権堂に電車の開通、10月には上水道の完成というように、町民に大きな影響をおよぼす事業がいくつもおこなわれました。
巨大迷路の町須坂
須坂の市街地は製糸業の発展によって急速に都市化が進みました。そのため道路計画が追いつかないままに市街地が拡大したので、道路は迷路に近く、現在でも巨大迷路の町といわれるゆえんとなっています。
好景気の中での公園計画
このような状況の中で「須坂町公園計画」が立案され、日本初の都市公園である東京日比谷公園の設計委員であった本多静六東大教授に設計を依頼しました。それによると、
- 臥竜公園に池を造り船を浮かべ、「休養公園」にする
- 臥竜公園南方の百々川沿を公園にする
- 鎌田山下に運動場と水泳場をあわせ「運動強化公園」にする
この計画はすぐには実行されませんでしたが、くしくも、昭和5年の生糸相場大暴落による山丸組の倒産などによる失業者救済工事として、翌6年に臥竜公園の竜ヶ池が造られました。
後にほかの計画はいずれも実現し、現在の市民の生活の中でなくてはならない存在になっています。
当時、須坂の大多数の人が製糸業とかかわって生きていました。製糸業は横浜の開港から昭和にかけて、日本経済を支え、近代化の原動力となってきました。その過程は世界経済の変動をまともに受け、須坂びとも時代の波に翻ろうされたのでした。しかし、須坂の蚕糸業の遺産は今日に受け継がれ、21世紀における須坂の道しるべとなっているのです。
『須坂の製糸業―生糸の歴史・技術・遺産―』(2001年3月発行)
これは、須坂の製糸業の資料を保存しその歴史を後世に残そうと、須坂製糸研究委員会により編集されました。これを読めば須坂の製糸業の歴史だけでなく、生糸の科学と製糸の技術も学べます。(B5版、230ページ)
- [ 頒布場所 ]
文化スポーツ課(須坂市役所本庁舎3階)、須坂市文書館、須坂市立博物館、笠鉾会館ドリームホール(須坂市立博物館分館)、須坂クラシック美術館、蔵のまち観光交流センター - [ 価格 ] 2,000円
郵送で購入をご希望の方は、下記の「宛て先」までお問合せください。
宛て先
須坂市役所 社会共創部 文化スポーツ課(須坂市役所本庁舎3階)
〒382-8511
長野県須坂市大字須坂1528番地の1
電話番号:026-248-9027(課専用、受付時間 8時30分~17時15分)
ファックス:026-248-8825
須坂の製糸王・越 寿三郎について
須坂の製糸王・越 寿三郎について、NPO法人NEXT須坂が作成した「越 寿三郎物語」もご覧ください。
ジュニア・エコノミー・カレッジすざか セミナー資料 須坂の先人に学ぼう「越 寿三郎物語」 (PDFファイル: 670.8KB)
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更新日:2024年04月01日