直江兼続と須坂
川中島合戦と天地人の時代背景
川中島合戦は北信濃に住む人々に大きな影響を与えました。当時の信濃国の国府は松本に置かれ小笠原氏が守護として任ぜられていました。しかし国人領主と呼ばれる地域の領主がそれぞれに力を持ち、守護小笠原家には反抗的な者が多かったため信濃を一つにまとめることはできませんでした。こうした中で信濃国は、信濃に勢力を伸ばしてきた武田信玄と、北信濃に強い力を持っていた越後の上杉謙信との戦いに巻き込まれて行きました。戦国時代の須坂には、井上氏・高梨氏・須田氏などが国人領主として勢力を持ち武士団を形成していました。諸氏は川中島の合戦には上杉方に味方したり、ある者は武田方につき、中には一族が双方に分かれて参戦することもありました。合戦は彼らが自らの家と所領を守るために生き残りをかけた戦いでもあったのです。武田方についた者、上杉方についた者、どちらも戦いに参加した武将たちの犠牲は大変なものでした。
川中島合戦は(1553年~1564年)まで五回にわたって続けられましたが、武田信玄は元亀4年(1573年)亡くなり、謙信も天正6年(1578年)世を去り、信濃の国は武田勝頼の領国となりました。武田氏滅亡後は、織田信長家臣の森長可が守護として任ぜられましたが織田家も滅びると、信濃の武士はその多くが上杉景勝の家臣団に組み込まれていきました。天地人は、この上杉景勝治世の時代の物語です。
越後と北信濃そして須坂
戦国時代、越後の府中は現在の上越市にあり北信濃とは近距離でした。そのため越後守護上杉氏とその代官長尾氏は、古くから国境を越えて北信濃の土豪たちと協力関係を結んできました。婚姻関係が結ばれ、双方をつなぐ道も整備されていました。越後府中から南へ堀ノ内(新井市)を経由して妙高山の裾野を通り野尻湖から善光寺へ至る道と、関川の支流長沢川を遡り富倉峠を越えて飯山城に至る道がありました。飯山には古くから越後と盟友関係にあった高梨氏の居城があり、府中から飯山城までは富倉峠越えで20数キロメートルと近距離でした。北信濃に位置する須坂もまた越後とは様々に交友関係を結んでいました。上杉景勝の重臣、直江兼続の妹が須田氏に嫁すなどいくつか接点を見出すことができます。
須田氏と直江兼続
須田氏は、高井郡須田郷(須坂市)を本拠とする領主でした。「尊卑文脈」に名を残す高井郡の名族「井上氏」の支族とされています。「吾妻鑑」によると、建久元年(1190)年平家を破った源頼朝が上洛する際、従った東国騎馬隊の中に信濃武士須田小太夫の名前を見出すことができます。須田氏は次第に支配力を増大していきました。須田氏は室町幕府を創建した足利尊氏と弟直義が争った「観応の擾乱」(1350年~1352年)では、足利尊氏側につき、米子城(須坂市米子)に立てこもり、京都から北陸を通り鎌倉に逃れようとした直義派と戦いました。
川中島合戦(1553年~1564年)では須田氏一族が武田方と上杉方に分かれて戦いましたが、本拠大岩城は武田方に攻略され領主須田頼国、満親親子は越後に逃れて行きました。
須田氏の城があった須坂市日滝地区
山の麓に居館があり、後ろの山頂には大岩城という山城がありました。
越後に逃れた須田親子は、謙信の跡目をめぐる争い「御館の乱」において上杉景勝に味方し、上杉家の重臣となりました。織田家滅亡後、北信濃は上杉景勝の支配となり、景勝の命により須田満親は天正13年(1585年)松代の「海津城主」となりました。
越中松倉(富山県魚津市)に派遣されていた須田満親が直江兼続に送った書状、同じく越中に派遣されていた武将菅名綱輔の書状に添えたもの。
満親は景勝の越中支配の中心となり、越中に派遣された武将たちを統括する立場になっていました。
宛名は「直江与六殿」となっています。
上杉景勝が海津城代須田満親にあてた朱印状。警察権・軍事指揮権など、大幅な権限委譲をしています。
満親は政治手腕に優れ、天正16年(1588年)に、上杉景勝、直江兼続、色部勝長と4人で秀吉に謁見、豊臣の名を名乗ることを許されました。上杉家の重臣直江兼続は須田満親と親しく、自分の妹を須田満親の嫡男満胤に嫁がせました。満親没後上杉家は慶長3年(1598年)会津に移封になり、須田家もまた上杉家と共に移住しました。満親はすでに没し、跡を継いだ満親の次男須田長義が一族を率いて会津に移住しました。この時長義は会津梁川に2万石の知行を与えられました。長義は徳川方として参陣した大阪冬の陣(慶長19年(1614))では、上杉家の先陣をつとめ、激闘の末武勲をあげました。この功により秀忠より直々の感状と短刀を拝領しています。
直江兼続の妹を娶った満親の長男満胤は、主君景勝の怒りを買い浪人となりました。秀吉の城である伏見城修理の命に反対を唱えたためと言われています。しかしその子満統は慶長19年(1614)の大阪冬の陣で武勲をあげて200石の知行を得、さらに500石に加増して上杉家臣団に戻ることができました。次男長義の一族は、江戸時代には上杉家の重臣として江戸家老などの要職を務めました。安永2年(1773)上杉鷹山の改革をめぐる騒動により250石となり幕末を迎えています。
坂田采女(うねめ)義満と直江兼続
須坂坂田出身の坂田采女(うねめ)義満は、須田氏の配下の武士でしたが会津移封後は「与板衆」と呼ばれる直江兼続直属の配下となりました。坂田采女は大阪冬の陣に兼続と共に参戦し武勲を挙げました。上杉家は豊臣方から一転して徳川方につき、豊臣方は敵となりました。采女は冬の陣最大の激戦と言われる鴨野表の戦いで活躍し、敵将穴沢盛秀を討ち取りますが仲間の渋江熊蔵に穴沢盛秀の首を渡し手柄を譲っていまいました。渋江は主人の怒りを蒙っていたので手柄を挙げさせようとしたのです。このことは後に徳川秀忠の知るところとなり、坂田采女は渋江熊蔵と共に戦功を讃えられ恩賞を受けました。
(米沢市上杉博物館所蔵)
(注意)本写真の無断転載を禁じます
(米沢市上杉博物館所蔵)
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須坂の諸将たち
須坂の人々にとって上杉家の会津移封は、大きな社会変革となりました。それは武士が群雄割拠してそれぞれの領地を守ってきた中世時代の終焉を告げ、秀吉さらに家康よる強大な支配体制に組織されていく歴史的な出来事となったのです。戦国時代には武士として働き、ふだんは農業を営む半農半士の在地武士は次第に村落の支配者となっていました。父祖の地を離れることは、これらの小支配者を払拭し大きな支配体制に組みこむ働きをしたのです。最後に須坂の武将たちの姿を追って、当時の須坂の様子をお伝えできればと思います。
井上氏
平安時代後期、清和源氏の流れを汲む源頼季が井上の地に土着したことに始まり、「尊卑文脈」によれば、村山・須田・高梨・米持などの支族を生んだと言われています。平家物語には、木曽義仲が横田河原で越後の城資職と戦った時に、井上光盛が保科党を率いて戦ったとされています。本家は須坂市井上郷にありました。室町時代、同族の高梨氏や須田氏との抗争で弱体化しました。川中島合戦では、配下の仁礼衆は武田方につき、総領家は上杉につき、同族が分かれて戦いました。上杉についた総領家は上杉家と共に会津に移住しました。井上氏一族には川中島合戦の見聞を記した「上杉諸士書上」の著者の一人井上隼人正がおり、親鸞の弟子善性も井上氏の出身です。
(注意)「尊卑文脈」南北朝時代の家系図。源・平・藤・橘など諸氏の系図を集大成したもの
井上氏居館跡(道路左側)須坂市指定史跡
現在はぶどう畑となっています。 -須坂市井上-
高梨氏
井上氏の祖源頼季の孫盛光が高梨郷(須坂市)に住んだことにより高梨氏を名乗りました。木曽義仲の挙兵にあたっては、義仲と共に京都に入りました。室町時代南北朝の内乱「観応の擾乱」では足利尊氏方につき野辺宮原や米子城で直義方と戦いました。
所領を拡大し、文明16年(1481)中野市間山に拠点を移しました。永正9年(1512)中野市小館に拠点を移し、越後長尾家とは深い姻戚関係を結ぶことになりました。越後守護上杉家と守護代長尾家の争いに際しては長尾家方の支援をしています。領主高梨政頼は上杉謙信の叔父にあたり、川中島合戦では上杉方で活躍。秀吉治世の頃は朝鮮に出兵、伏見城修理で叱責を受け改易となりましたが、高梨家は存続し上杉家の会津から米沢移封に際して500石の知行を受けています。
「関山国師」:南北朝時代の高僧
建治3年(1277年)京都妙心寺の開祖となった。出生地について、須坂市説、中野市説、高山村説があります。 -須坂市高梨-
仙仁氏
仁礼衆と呼ばれた地侍集団に属し、須坂市仙仁地区の出身。信濃守護小笠原氏から分かれた一族。須田氏と姻戚関係にありました。戦国時代は保科に所領を持ち、川中島合戦では武田方につきました。天正10年上杉景勝から本領安堵されて上杉家の家臣となり、須田信正抱えの同心衆となりました。上杉家の会津移封に伴って移住。米沢では医者となり幕末まで仕えました。
須坂市の東端、仙仁川の谷沿いに集落が広がる。
現在は、須坂から菅平・峰の原高原への玄関口となっています。 -須坂市仙仁-
参考文献
- 「須坂市史」 昭和56年発行
- 「長野県史 通史編」 長野県
- 「ふるさと須坂」 須坂市教育委員会
- 「直江兼続のすべて」 花ケ崎盛明編 新人物往来社
- 「中世越後の歴史 武将と古城をさぐる」 花ケ崎盛明著 新人物往来者
- 「中世信濃武士以外伝」 長野県立歴史館 郷土出版社
- 「長野県立歴史館2007年度秋季企画展展示図録 武田・上杉・信濃武士」
- 「米沢市上杉博物館特別展『直江兼続』図録」 米沢市上杉博物館
- 「新・歴史群像シリーズ 上杉謙信」 学習研究社
- 「須高」第10号 須高郷土史研究会
- 日瀧の史跡 日瀧の史跡発刊委員会
- 高等学校地歴教科書「日本史B」 三省堂
- 高等学校地歴教科書「日本史B」 東京書籍
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更新日:2024年03月26日