須坂市の歴史年表 明治時代(西暦:1868年~1912年)
明治時代(西暦:1868年~1912年)
西暦(年) 和暦 |
月日 | 市 | 県 | 国 |
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1868 明治1 |
9月8日 | 明治と改元する。 | ||
1868 明治1 |
なし | 北村方義が須坂藩の議事方を勤める。 | 信州の蚕種輸出が188万枚におよぶ | |
1869 明治2 |
6月 | 須坂藩主堀直明が、版籍奉還を行い藩知事に任命される。 | このころ信州11藩が版籍を奉還する。 高井郡内の蚕種渡世人315人に鑑札を下付する。 |
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1869 明治2 |
12月2日 | 禄制を定め、藩士の俸禄を減らす。士族・卒の称を定める。 | ||
1869 明治2 |
なし | 松代藩が商法社を設立する。 | ||
1870 明治3 |
2月3日 | 信州列藩会議が松代町で開かれ、須坂藩ほか各藩が参加する。 | ||
1870 明治3 |
2月12日 | 大峡荒治(須坂病院開設者)が生まれる。 | ||
1870 明治3 |
5月 | 須坂藩・飯田藩・高島藩など蚕種の取締りや生糸改めを実施する。 | ||
1870 明治3 |
7月 | 井上村の坂本幸右衛門が、北信商社(伊那県商社の支社)へ500両の高額出資をする(高井野村では出資者が21名となる)。 | ||
1870 明治3 |
9月17日 | 井上・亀倉村ほか北信の旧天領村々が、伊那県から分かれて、中野県の支配となる。 | ||
1870 明治3 |
9月19日 | 平民に苗字が許可される。 | ||
1870 明治3 |
10月 | 須坂藩の兵制を、フランス式に改め2小隊をおく。 | ||
1870 明治3 |
11月25日 | 松代藩で貧農・小作人ら数万人が、年貢の減免・商法社廃止を要求して世直し騒動をおこす(~27日松代騒動)。 | ||
1870 明治3 |
12月17日 | 須坂藩で農民1500~1600人が、税法改正を要求して、強訴をおこす(~18日須坂騒動発生地灰野村)。 | ||
1870 明治3 |
12月19日 | 中野県下において数万の農民らが、石代金の値下げ 商社廃止を要求して世直し騒動をおこし、県庁を焼く(~21日中野騒動発生地高井野村)。 | ||
1871 明治4 |
4月4日 | 戸籍法を定める(翌5年2月1日より実施 壬申戸籍という)。 | ||
1871 明治4 |
6月22日 | 井上・亀倉・塩野などの村を支配する中野県が長野県と改称され、県庁を長野村に移す。 | ||
1871 明治4 |
7月14日 | 廃藩置県の詔書がだされ、須坂藩は須坂県に、松代藩は松代県となる。 | ||
1871 明治4 |
8月28日 | えた・非人の称が廃される。 | ||
1871 明治4 |
9月3日 | 田畑勝手作りを許可する。 | ||
1871 明治4 |
11月20日 | 須坂藩・松代藩などの諸県が長野県に統合され、信濃国は長野県と筑摩県の2県となる。 | ||
1871 明治4 |
12月 | 福島村が平野要左衛門が、全国蚕種共進会において第1位となる。 | ||
1871 明治4 |
なし | 須坂地方でランプの使用が始まる。 | ||
1872 明治5 |
1月29日 | 卒の身分を廃し、皇族・華族・士族・平民の4身分とする。 | ||
1872 明治5 |
4月9日 | 庄屋・名主・年寄の呼称が廃止され、戸長・副戸長をおく。 | ||
1872 明治5 |
4月 | 共立学校設立の建言書が、旧須坂士族西原友平より提出される。 | ||
1872 明治5 |
7月4日 | 全国一般の土地に地券が交付される(壬申地券と呼ぶ)。 | ||
1872 明治5 |
7月 | 須坂村の立町に官営の須坂生糸改会所を設置する。 | ||
1872 明治5 |
8月 | 伝馬所・助郷制度を廃止し、各駅に中牛馬会社を設ける。 | ||
1872 明治5 |
8月3日 | 学制を制定する。 | ||
1872 明治5 |
9月3日 | 田畑永代売買の禁をとく。 | ||
1872 明治5 |
10月4日 | 富岡製糸場が開業する。 | ||
1872 明治5 |
10月10日 | 大区・小区の布達が大蔵省よりだされる。 | ||
1872 明治5 |
10月 | 戸籍区が編成され、井上・八町村ほか14カ村が第39区、須坂・灰野村ほか11カ村が第40区となる。 | ||
1872 明治5 |
11月11日 | 戸籍区の戸長・副戸長を区長・副区長に 名主・組頭を戸長・副戸長と呼ぶこととする(「長野県区戸長事務条程」の布達)。 | ||
1872 明治5 |
12月3日 | 太陽暦が実施され、この日を明治6年1月1日とする。 | ||
1873 明治6 |
1月10日 | 微兵令を布告する。 | ||
1873 明治6 |
3月 | 福島村・灰野村・野辺村(2名)・須坂村の娘5名が富岡製糸場の工女として入場する。 | ||
1873 明治6 |
6月8日 | 石高の称を廃し、反別とする。 | ||
1873 明治6 |
6月26日 | 地租改正条例を布告する。 | ||
1873 明治6 |
7月5日 | 岩下伴五郎が「長野新報」(のちの信濃毎日新聞)を創刊する。 | ||
1873 明治6 |
7月7日 | 雁田村に大規模な器械製糸工場が設立される。 | ||
1873 明治6 |
7月15日 | 須坂村立町と福島村に初めて郵便取扱所が設けられる。 | ||
1873 明治6 |
11月 | 須坂村に本立学校(後の須坂小学校)が開設する。以後翌7年にかけて、各村に小学校が開校する。 | ||
1873 明治6 |
なし | 小山村南原の中島和兵衛が上野国熊谷(埼玉県)から荷車を購入して使用する(須坂地方で初めてという)。 須坂村新町の土屋福四郎が長野より人力車二台を購入し、1里につき8銭で、営業を開始する。 上八町村と下八町村が合併して八町村となる。 各村で上・中・下・下々の等級に分け、田畑の坪狩を実施する(翌7年にも実施)。 |
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1874 明治7 |
1月17日 | 板垣退助らが、民選議員設立建白書を提出する。 | ||
1874 明治7 |
3月 | 井上村に郵便取扱所が設けられる。 | ||
1874 明治7 |
7月1日 | 善光寺大勧進で、博覧会が開催される(~8月19日)。 | ||
1874 明治7 |
7月16日 | 長野県が区画改正条例により、大区に正副区長 小区に正副戸長をおくこととする(8月15日実施)。 | ||
1874 明治7 |
7月 | 高井郡の農民に対する壬申地券の発行が完了する。 | ||
1874 明治7 |
8月15日 | 大区小区制が実施される。第十七大区会所を井上村に 第十八大区会所を小布施村に置き 副区長はそれぞれ岡村覚左衛門・高井辰二が任命される。 | ||
1874 明治7 |
なし | 須坂村の青木甚九郎・遠藤万作が、それぞれ器械製糸工場を設立する(須坂地方で始めて)。 | 松代町に千曲川通船会社ができる。 | 横浜で輸出用蚕種58万枚を焼きすてる。 |
1875 明治8 |
2月20日 | 諸雑税を廃止し、車税・酒税・煙火税などの規制をきめる。 | ||
1875 明治8 |
4月 | 長野県の地租改正が始まり、須坂地方でも土地の再丈量を開始する。 | ||
1875 明治8 |
5月 | 灰野・大日向・坂田の三カ村が合併して園里村となる。 | ||
1875 明治8 |
6月20日 | 全国第一回地方官会議が東京で開かれ、岡村覚左衛門(第十七大区副区長)らが県官に同行し傍聴する。 | ||
1875 明治8 |
6月 | 製糸業者の協同出荷組織・東行社を設立する。 | ||
1875 明治8 |
9月 | 仁礼村ほか各村単位に地位段級表を作成し、大区会所へ提出する(~10月30日)。 | ||
1875 明治8 |
11月 | 村山村に8艘の船を使って、船橋がかけられる。 | ||
1875 明治8 |
なし | 灰野村の坂田近助が洋種の牡牛を購入し、産牛を始める(9年4頭 10年に10頭の子牛を生産)。 この年より田・畑・宅地の税は 地価の100分の3を地租として納入する。 須坂村の遠藤万作・小田切武兵衛・青木甚九郎らが、富岡製糸場を視察する。 |
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1876 明治9 |
3月6日 | 第十七大区の区・戸長が、地価の基本となる反当収穫量の決定をめぐって談合し、村等級を決める(~31日)。 | ||
1876 明治9 |
3月27日 | 奥田直恭(須坂藩主堀直明の嗣子)が生まれる。 | ||
1876 明治9 |
4月1日 | 官庁が日曜日の休日・土曜日半休を実施する。 | ||
1876 明治9 |
5月22日 | 「県案」が口達され、第十七大区村々の反当収穫量が提示される。 | ||
1876 明治9 |
7月 | 長野県の田・畑・宅地の地租改正が完了する。 | ||
1876 明治9 |
8月21日 | 筑摩県を廃し長野県に合併する。 | ||
1876 明治9 |
10月26日 | 須坂村が須坂町となる。 | ||
1876 明治9 |
なし | 牧新氏七・小坂善之助らが長野町に彰真社(後の信濃銀行)を設立する。 | 長野県の小学校就学率が全国第1位となる(63%余)。 | |
1876 明治9 |
なし | 水車による器械製糸工場が須坂町・小山村に22を数える。 | ||
1877 明治10 |
1月4日 | 地租を地価の100分の2.5に軽減する。 | ||
1877 明治10 |
1月20日 | 岡村覚左衛門・黒川孝行らが、国・県道修繕についての県民会(北大区のみ)に議員として出席する。 | ||
1877 明治10 |
2月15日 | 西南戦争が始まる(県下の戦死者107人)。 | ||
1877 明治10 |
8月21日 | 第1回内国勧業博覧会を開催する。 | ||
1877 明治10 |
なし | 新大笹街道が開通する。 | 県下での蚕の保温育が始まる。 | |
1878 明治11 |
3月 | 宮崎信友が県民会議長となり、民費節減などを検討する。 | ||
1878 明治11 |
5月 | 東行社が、県下始めての生糸の協同揚げ返しを始める。 | ||
1878 明治11 |
7月22日 | 郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則(三新法という)が制定される。 | ||
1878 明治11 |
9月8日 | 明治天皇が長野町に巡幸する。須坂地方の村では煙火をあげて迎える。 | ||
1878 明治11 |
11月 | 山林原野の地租改正が終わり、長野県の地租改正が完了する。 | ||
1879 明治12 |
1月21日 | 上高井郡役所が開かれ、上高井郡が発足する(県下に16郡をおく)。 | ||
1879 明治12 |
2月 | 初めて県会議員選挙が実施され、小林新兵衛が当選する。 | ||
1879 明治12 |
3月26日 | 第1回長野県会が開かれる。 | ||
1879 明治12 |
6月30日 | 小区扱所を廃止し、1村または連合村に戸長役場が開設される。 | ||
1879 明治12 |
7月1日 | 長野警察井上分署が須坂分署となり、須坂町に移転する。 | ||
1879 明治12 |
9月29日 | 教育令を制定する(学制廃止)。 | ||
1879 明治12 |
なし | 須坂地方27町村のうち 17町村に町村会が開設される。 | 県勧業課が篤志家に、りんご苗・ぶどう苗を交付する。 | |
1880 明治13 |
3月25日 | 高井鴻山が書いた福島天神社の大幟りが初めて建てられる。 | ||
1880 明治13 |
4月8日 | 政府が区町村会法を定める。 | ||
1880 明治13 |
4月 | 高井村ほか村々入会地が官有地から民有地に引き戻される。 | ||
1880 明治13 |
6月 | 園里村乳山入会地が官有地から民有地に引きもどされる。 | ||
1880 明治13 |
6月 | 土屋坊の渡しが船橋となる。 | 生糸輸出高において、長野県が群馬県をおいこし、全国第1位となる。 | |
1880 明治13 |
6月 | 青木松之助らが信正社(俊明社の前身)を設立する。 | ||
1881 明治14 |
5月3日 | 洋画の先覚者川上冬崖が死去する(福島新田四ツ屋出身)。 | ||
1881 明治14 |
10月12日 | 国会開設の詔勅が発せられる。 | ||
1881 明治14 |
10月29日 | 板垣退助らが自由党を結成する。 | ||
1882 明治15 |
3月14日 | 伊藤博文らが憲法調査のためヨーロッパに出発する(~16年8月)大隈重信らが立憲改進党を結成する。 | ||
1882 明治15 |
5月 | 亀倉入会地の分割訴訟で原告の野辺側が大審院において敗訴する。 | ||
1882 明治15 |
6月 | 市川佐次右衛門らが灰野牧畜改良会社を創立し、短角牛を導入する。また五味池に乳山牧場を開く。 | ||
1882 明治15 |
9月 | コレラ菌大流行し死者多数にのぼる。 | ||
1882 明治15 |
10月10日 | 日本銀行が開業する。 | ||
1882 明治15 |
11月 | 相之島~長沼間の津野の渡しが船橋となる。 | ||
1882 明治15 |
なし | 自由民権を唱える上高井振起会が、須坂町山下八右衛門宅に仮事務所をおき発足する。 樋口良太郎が須坂町田中力之助の依頼により、自転車を製作する。 |
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1883 明治16 |
1月 | 官有地化された仙仁山・仁礼山入会地が民有地に引きもどされる。 | ||
1883 明治16 |
3月2日 | 沼目村の勝山直久が自由党に入党する(6月27日には野辺村の丸山万五郎が入党する)。 | ||
1883 明治16 |
4月16日 | 言論の取締りを強化するため新聞紙条例を改正する(29日出版条例の改正)。 | ||
1883 明治16 |
9月 | 坂田村で村会規則を作成する(15年12月に園里村より分村)。 | ||
1883 明治16 |
12月4日 | 山下八右衛門らの主催で、郡下初めての政談演説会を開く。中止 解散を命じられる。 | ||
1883 明治16 |
なし | 園里村灰野で牛馬市を始める。 丸山名政が小野梓をつれて、立憲改進党の党勢拡張のため 須坂町にやってくる。 灰野牧畜改良会社が北信牧場(後の菅平牧場)を開設する。 この年ドル相場下落で製糸場の倒産が増える。 須坂小学校が洋式に改築される。 |
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1884 明治17 |
7月 | 県会議員宮崎信友が長野県副議長となる。 | ||
1884 明治17 |
10月31日 | 秩父事件がおきる(12月6日飯田事件がおきる)。 | ||
1884 明治17 |
なし | 農産物の下落が相つぎ、小作農に転落するものがふえる。 | ||
1885 明治18 |
2月27日 | 郡下全域に連合戸長役場が発足し、官選の戸長が任命される。 | ||
1885 明治18 |
2月 | 上高井郡私立教育会が設立される。 | ||
1885 明治18 |
5月 | 信正社が解消し、小田切辰之助らにより俊明社が設立される。 | ||
1885 明治18 |
6月30日 | 千曲川が大洪水となる。そのため米穀値上げとなり、須坂町では金1円につき白米1斗5升のところ1斗となる。 | ||
1885 明治18 |
11月 | 中村三折・勝山直久らが「いろは政談演説会」を 須坂町泉屋で開く(聴衆750人)。 | ||
1885 明治18 |
12月22日 | 太政官制度を廃し内閣制度を置く。 | ||
1885 明治18 |
なし | 北信牧場が農商務省より純粋短角牛を貸与される。 | ||
1886 明治19 |
4月10日 | 小学校令により小学校4年までを義務制とする。 | ||
1886 明治19 |
8月29日 | 須坂町にコレラ病が流行しはじめ 町村の出入り口に厳重な見張番を置く(製糸工場は20日間休業。過剰原料繭を岡谷に送る)。 | ||
1886 明治19 |
12月14日 | 福島村四ツ屋と綿内村土屋坊が分村して、新村上水内郡屋島村となる。 | ||
1886 明治19 |
なし | 須坂町に蚕種業組合事務所が設置される。 須坂町春木町浄念寺に13間掘の庁内初めての井戸が掘られる。 日野村沼目の勝山仲兵衛が豊洲村高畑にぶどうを植える。 |
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1887 明治20 |
6月 | 越寿三郎が山丸組を結成する。 | ||
1887 明治20 |
10月 | 須坂町に簡易水道を敷設し、製糸用水とする。 | ||
1887 明治20 |
11月20日 | 長野町城山館で信濃全国大会が開かれ、山下八右衛門・中村三折・板倉信哉・勝山直久らが出席する。 | ||
1887 明治20 |
12月25日 | 保安条例を公布(翌26日、尾崎行雄ら570名を東京から追放する)。 | ||
1887 明治20 |
なし | 長野治安裁判所須坂出張所が設置される。 | 隈東農会が創立され、牛馬耕・麦作を奨励し水田の排水事業を企てる。 | |
1887 明治20 |
なし | 須坂町の関係河川の酸性化が明らかとなり、上水道敷設の説がもちあがる。 松川堤防の大修理が行なわれる。 この年牧新七(7,910円) 小田切新蔵(5,210円) 田中力之助(5,137円) 牧茂助(2,783円) 小田切辰之助(2,450円)らが群下の高額所得者となる。 |
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1888 明治21 |
3月24日 | 地租軽減・言論集会の自由を要求して、勝山直久ら県下726人の連名で元老院へ建白書を提出する。 | ||
1888 明治21 |
4月25日 | 市制・町村制が公布される(翌年4月1日より実施)。 | ||
1888 明治21 |
4月 | 米子村入会地が官有地から民有地に引きもどされる。 | ||
1888 明治21 |
5月1日 | 信越線長野~直江津間が開通する。 | ||
1888 明治21 |
5月17日 | 製糸工場より出火し、太子町・春木町が大火災にあう。家屋30余戸を全焼する。 | ||
1888 明治21 |
6月 | 須坂町の山岸茂兵衛が人力車5台を入手し、挽子4人を雇い「迅速力車」の表札を掲げて営業を始める。 | ||
1888 明治21 |
10月 | 須坂町でポンプを購入し、初めて消防組を組織する。 | ||
1888 明治21 |
なし | 中村三折らが須坂町友誼会 上高井倶楽部を結成する。 | ||
1889 明治22 |
2月11日 | 大日本帝国憲法が公布される。 | ||
1889 明治22 |
2月25日 | 須坂町役場が火災により焼ける。須坂町ほか野辺・村石・園里・小山各村関係書類が焼失する。 | ||
1889 明治22 |
4月1日 | 市町村制が施行され、須坂町・豊洲・日野・井上・高甫・仁礼・小山・日滝村の1町7カ村が成立する。 | ||
1889 明治22 |
4月 | 各町村で初めて町村会議員(須坂町は12人)選挙が実施される。 | ||
1889 明治22 |
5月17日 | 須坂町会で選出された中沢吉四郎が町長に就任する(これまでは戸長であった)。 | ||
1889 明治22 |
6月 | 牧村に七味温泉が開発される。 | ||
1889 明治22 |
7月8日 | 千曲川大洪水のため船橋をとく。7月初めに金1円につき白米2斗のところ、20日過ぎには1斗3升の高値となる。 | ||
1889 明治22 |
8月 | 県都長野との連絡道路(横町から一直線に高梨へ出る道路)が完成する。 | ||
1889 明治22 |
10月18日 | 勝山直久・荻原政之助らが条約改正中止の建白書を提出する。 | ||
1889 明治22 |
12月5日 | 板倉信哉・青木芳郎らが条約改正の断行を要求する建白書を提出する。 | ||
1889 明治22 |
なし | 1郡1校制の上高井高等小学校が須坂町に建設される(川田・綿内・小布施の各村に分教場をおく)。 豊洲村別府でりんご栽培が始まる。 |
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1890 明治23 |
7月1日 | 第1回衆議院議員総選挙が実施される。 | ||
1890 明治23 |
10月30日 | 教育勅語が発布される。 | ||
1890 明治23 |
11月25日 | 第1回帝国議会を開かれる。 | ||
1890 明治23 |
なし | 須坂~長野間の馬車鉄道が定期往復を開始する。 東行・俊明両社はこの年よりすべて蒸気器械を使用する。 |
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1891 明治24 |
4月1日 | 郡制が試行される。 | ||
1891 明治24 |
なし | 上高井郡会議員が生まれる。田中力之助・小田切新蔵・牧新七は大地主のため選挙によらないで郡会議員となる。 遠藤万作・牧新七らが新潟県の長岡へ器械製糸工場を開設する。 郡下の飼育牛頭数が1,100余頭となり、全県の3分の1をしめる。 このころ上八町夜学会が願浄寺に開かれる。 |
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1892 明治25 |
2月15日 | 第2回総選挙で丸山名政が衆議院議員に当選する。 | ||
1892 明治25 |
3月31日 | 1郡1校の高等小学校を廃止し、各分校が独立し組合立となる。 | ||
1892 明治25 |
なし | 上高井産牛馬組合が設立される。 米子川利用の発電所計画ができる。 須坂小売商組合が設立される。 穀町新道(西穀町線)が開かれる。 小山村が豊丘村と名称を変える。 |
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1893 明治26 |
2月16日 | 市川鉱害対策として掘った野辺の深井戸が湧水する(深さ18間)。 | ||
1893 明治26 |
4月1日 | 碓氷峠のアプト式鉄道が完成し、信越線が全通する。 | ||
1893 明治26 |
なし | 春より須坂町の東糀屋(小田切新蔵宅)にて13台の織機により羽二重を織る。 須坂町横町の横能登楼・5階建高層建築が完成する。 「小堀騒動」が出版される。 東行社及び山下八右衛門らが上信鉄道建設の建議書を提出する。 |
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1894 明治27 |
6月 | 水道条例が出され、従来の士管式水道を無償で須坂町に引き継ぐ | ||
1894 明治27 |
8月1日 | 日清戦争がおこる。 | ||
1894 明治27 |
10月16日 | 須坂小学校に郡下で初めて御真影が下賜される。 | ||
1894 明治27 |
なし | 井上村に絹織物工場がつくられる。 | ||
1895 明治28 |
2月 | 上高井銀行が設立される(後の高井銀行)。 | ||
1895 明治28 |
4月17日 | 日清講和条約(下関条約)が成立する。 | ||
1895 明治28 |
9月 | 郡下の自由党員70名、改進党員20名という。 | ||
1895 明治28 |
12月20日 | 須坂町に演劇場墨坂亭が開設される(このころ長門座も開く)。 | ||
1895 明治28 |
なし | 仁礼小学校に高等科を併設する。 | ||
1896 明治29 |
7月20日 | 千曲川をはじめ、百々川・松川・八木沢川などが大洪水となる。郡下の流失・崩壊家屋101棟。日野小学校は8月5日まで休校する。 | ||
1896 明治29 |
10月1日 | 東行社の電話架設が認可される。 | ||
1896 明治29 |
11月 | 須坂税務署が開設される。 | ||
1896 明治29 |
なし | 豊丘村園里の羽生田利助が練乳製造販売の許可を得て、県下で初めての酪製品を製造する。 各町村に農会が発足する。 |
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1897 明治30 |
1月7日 | 郡下に群発地震がおこり被害が出る(11月まで続く)。 | ||
1897 明治30 |
2月 | 日滝銀行が設立される(のちの須坂商業銀行・昭和3年4月解散)。 | ||
1897 明治30 |
4月1日 | 長野市が発足する。 | ||
1897 明治30 |
5月 | 須坂町に信陽銀行が設立される(資本金32万円 大正12年4月解散)。 | ||
1897 明治30 |
7月 | 中村太八郎らが松本で普通選挙同盟会を設立する。 | ||
1897 明治30 |
10月 | 金本位制を実施する。 | ||
1897 明治30 |
なし | 中村三折が須坂病院を開院する。 | このころ千曲川沿岸に菜種栽培がふえ、花盛りには黄金島と呼ばれる。 | 志賀潔が赤痢菌を発見する。 |
1897 明治30 |
なし | 豊丘村小山小学校に高等科を併設する(31年井上、34年高甫・園里・豊洲・日滝)。 | ||
1898 明治31 |
1月 | 墨坂銀行が設立される(後の綿内銀行 大正12年4月解散)。 | ||
1898 明治31 |
8月 | 上高井蚕種同業組合が設立される。 | ||
1898 明治31 |
9月1日 | 信越線吉田駅が設置され、須坂・吉田間に繭・生糸・石炭等の輸送が開始される。 | ||
1898 明治31 |
なし | 須坂硫黄会社が設立され、米子鉱山を経営する。 | 笠岳の南西後斜面に山田牧場が開かれる(181町歩)。 | |
1899 明治32 |
1月25日 | 井上村福島に県下初の実業補習学校として、私立福島農業補習学校が開校する。 | ||
1899 明治32 |
7月17日 | 治外法権撤廃の改正条約を実施する。 | ||
1899 明治32 |
8月 | 郡下に赤痢が流行する(~9月)。 | ||
1899 明治32 |
11月 | 須坂興業倉庫株式会社が設立される(資本金3万円)。 | ||
1899 明治32 |
なし | 須坂蚕種検査所を立町に設ける。 東行社社員の各家庭に施設電話を設置する。 越寿三郎が太子町に金丸製糸所を建設する。 |
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1900 明治33 |
1月 | 製糸業者らが須坂馬車鉄道設立請願書を内務大臣あてに提出する。 | ||
1900 明治33 |
4月 | 高井商業銀行が設立される(昭和4年2月解散)。 | ||
1900 明治33 |
7月 | 須坂町に産業銀行が開業する(昭和5年12月解散)。 | ||
1900 明治33 |
11月18日 | 上高井農会の発会式が行なわれる(会員382名)。 | ||
1900 明治33 |
なし | 須坂町に産業組合法にもとづく上高井信用組合が県下で初めて設立される(38年に解散)。 | ||
1901 明治34 |
11月18日 | 官営八幡製鉄所が操業を開始する。 | ||
1901 明治34 |
なし | 須坂町で初めての上高井庭球大会が開かれる。 | ||
1902 明治35 |
1月30日 | 日英同盟が成立する。 | ||
1902 明治35 |
2月 | 須坂硫黄株式会社が解散して信濃硫黄株式会社が設立される。 | ||
1902 明治35 |
7月 | 上高井政友同志社倶楽部が綿内村に事務所をおいて設立される。 | ||
1902 明治35 |
なし | 塩野と園里両区の水論示談が成立し、元のとおり8分2分の水分けとなる。 | ||
1902 明治35 |
なし | このころ松井須磨子(小林正子)が須坂町の製糸工場で女工として働く。 | ||
1903 明治36 |
4月13日 | 小学校令を改正し、国定教科書制度を確立する。 | ||
1903 明治36 |
5月 | 信濃電気株式会社が、越寿三郎らにより設立される。 | ||
1903 明治36 |
11月1日 | 「平民新聞」が創刊され、非戦論を主張する。 | ||
1903 明治36 |
なし | 須坂実業補習学校・豊洲農工補習学校が設立される(以後37~38年にかけて各村に設立される)。 | 県下の製糸生産高が工業生産高の83%をしめる。 | |
1903 明治36 |
なし | 豊洲村に相之島信用組合(44年解散)が、豊丘村に豊丘販売購買生産組合が設立される。 | ||
1904 明治37 |
1月 | 信濃電気株式会社が、仁礼村米子に60KWの発電所を完成する。 | ||
1904 明治37 |
2月10日 | 日露戦争が始まる。 | ||
1904 明治37 |
5月 | 仁礼小学校新校舎ができる。祝賀式には校歌とともに仁礼村歌も発表される。 | ||
1904 明治37 |
12月 | 須坂生糸同業組合が設立される。 | ||
1904 明治37 |
なし | 須坂料芸組合が設立される(料理業30余戸、芸妓置屋10余戸、芸妓60余名)。 | 第1回郡下学童連合運動会が開催される。 | |
1905 明治38 |
3月10日 | 高梨部落が仙仁山・仁礼山入会地の持分権を地元村に譲渡する(続いて39年には綿内 42年には福島も譲渡する)。 | ||
1905 明治38 |
3月17日 | 五味池一帯の乳山入会地を 豊丘村園里区が3,500円で買収する。 | ||
1905 明治38 |
5月 | 六十三銀行須坂支店が、高井銀行を吸収合併して開業する。 | ||
1905 明治38 |
9月5日 | 日露戦争が終結しポーツマス条約に調印する。日比谷焼打事件がおこる。 | ||
1905 明治38 |
なし | この年小学校の実質就学率が男子90% 女子80%となる。 | 郡下に大豆粕が出まわる。 | |
1906 明治39 |
1月28日 | 日本社会党が結成される(翌年禁止され解散)。 | ||
1906 明治39 |
3月25日 | 島崎藤村「破戒」が出版される。 | ||
1906 明治39 |
9月4日 | 2万分の1の信濃国上高井郡地図が』作成される。 | ||
1906 明治39 |
なし | 製糸工場で重油値上がりのため石炭を用いる。 | 郡内に自転車39台となる(45年には529台)。 | |
1906 明治39 |
なし | 豊丘村の長野弥惣治ら坂田地籍の耕地整理事業の認可をうける(43年までに完成)。 | ||
1907 明治40 |
1月6日 | 須坂・松代町の羽二重業者が斉外式羽二重機約20台を注文する。 | ||
1907 明治40 |
3月21日 | 義務教育を6年とする小学校令の改正が行われる。 | ||
1907 明治40 |
4月23日 | 須坂町馬場町で牧新七経営の山一製糸工場が火災により焼失する。 | ||
1907 明治40 |
8月24日 | 須坂町に特設電話の開設が認可される(翌年3月開通する)。 | ||
1907 明治40 |
なし | 日野村村山に大火があり32戸を焼く。 北信牧場が官有地の払い下げをうけ、県下最大の牧場となる。 |
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1908 明治41 |
4月28日 | 第1回ブラジル移民が出発する。 | ||
1908 明治41 |
4月 | 亀倉入会地において、井上・米持部落が入会権を亀倉部落に譲渡する。 | ||
1908 明治41 |
なし | 須坂町の人口7,860人、戸数1,734戸となる。 | 県下の桑園面積が麦栽培面積を追いこす。 | |
1909 明治42 |
4月 | 上高井教員養成所を郡役所の一部に開設する。 | ||
1909 明治42 |
なし | 須坂町内39工場の就業時間調査によると 製糸工女の労働時間は 1日に12時間ないし15時間となる。 | 郡下各町村に衛生組合ができる。 | |
1910 明治43 |
5月25日 | 大逆事件がおきる。 | ||
1910 明治43 |
8月29日 | 韓国を併合し、朝鮮総督府をおく。 | ||
1910 明治43 |
8月 | 千曲川に村山橋(船橋)が完成する。 | ||
1910 明治43 |
なし | 須坂町に腸チフスが流行し患者600名を数える。 | トラホームの検診を各町村ごとにおこなう。 | 帝国在郷軍人会が発足し、各町村に分会ができる。 |
1910 明治43 |
なし | 産業組合上高井支部が設定される(甲田郡長が会長)。 | ||
1911 明治44 |
2月21日 | 日米の条約改正が完成し関税自主権を獲得する。 | ||
1911 明治44 |
3月29日 | 幼年工の就業制限などを決めた工場法を公布する(施行は大正5年9月)。 | ||
1911 明治44 |
4月28日 | 須坂町製糸工女の運動会が盛大に行われる。 | ||
1911 明治44 |
6月 | 信濃銀行須坂支店が開業する。 | ||
1911 明治44 |
7月 | 須坂町太子町に俊明社病院が開設される。 | ||
1911 明治44 |
10月30日 | 日滝原で陸軍機動演習が行われる。 | ||
1911 明治44 |
11月 | 豊丘村が唱歌として文部省に認可される。 | ||
1911 明治44 |
なし | 郡下の各小学校で野球が流行する。 | 山丸組が愛知県安城町に714釜の工場を設置する。 | |
1912 明治45 |
4月1日 | 郡立上高井農学校か開校する(乙種 定員170名)。 | ||
1912 明治45 |
7月6日 | 日本がオリンピックに初めて参加する。 |
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更新日:2024年03月26日