須坂市の歴史年表 室町・安土桃山時代(西暦:1335年~1603年)
室町・安土桃山時代(西暦:1335年~1603年)
(注意)和暦が二つ記載されている場合は、上段が北朝・下段が南朝です。
西暦(年) 和暦 |
月日 | 市 | 県 | 国 |
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1336 建武3 延元3 |
1月23日 | 高梨五郎・同太郎時綱らが村上信貞に従って牧城に香坂小太郎入道心覚を討つ。 | ||
1336 建武3 延元3 |
6月26日 | 勢力を盛り返した香坂小太郎入道心覚らを高梨経頼・同時綱らが討つ。 | ||
1336 建武3 延元3 |
なし | 高梨一族が所領争いをおこし、一門の衆中批判によって裁定する。 | ||
1338 暦応1 正平5 |
8月 | 足利尊氏が将軍となり、室町幕府を開く。 | ||
1346 貞和2 正平5 |
なし | 井上一族が祢津宗良とともに野辺原の戦で高梨経頼ら北朝軍を破る。 | ||
1350 観応1 |
6月29日 | 普願寺が武蔵国秩父郡大岩より日滝村に移るという。 | ||
1390 元中7 明徳1 |
なし | 「高梨文書」に松川北(小布施町)が初めてあらわれる。 | ||
1392 元中9 明徳3 |
10月 | 南北朝が合一する。 | ||
1399 応永6 |
12月 | 応永の乱がおこる。 | ||
1400 応永7 |
9月 | 大塔合戦(長野市篠ノ井)で、村山・井上・高梨氏ほか信濃武士が新守護小笠原長秀を破る。 | ||
1406 応永13 |
なし | 善光寺金堂が修造される。 | ||
1425 応永32 |
なし | 小笠原政康が信濃守護となる。 | ||
1439 永享11 |
2月 | 永享の乱がおこり、足利持氏父子が自殺する。 | ||
1441 嘉吉1 |
6月 | 嘉吉の乱がおこる。 | ||
1449 宝徳1 |
8月15日 | 高梨氏一族15名が10カ条にわたる領内支配の規範を定める。 | ||
1467 応仁1 |
5月 | 応仁の乱がはじまる(~文明9年)。 | ||
1473 文明5 |
なし | 普願寺が日滝村から小山村に移るという。 | ||
1487 長享1 |
12月 | 加賀に一向一揆がおこる。 | ||
1493 明応2 |
なし | 臥竜山興国寺が創立される(開山天英祥貞)。 | ||
1510 永正7 |
6月 | 高梨政盛が関東管領上杉顕定を討ちとる。 | ||
1542 天文11 |
9月 | 武田晴信が信濃に侵攻し、諏訪頼重を滅ぼす。 | ||
1543 天文12 |
8月 | ポルトガル船が種子島に渡来し鉄砲を伝える。 | ||
1549 天文18 |
7月 | フランシスコ=ザビエルがキリストを伝える。 | ||
1553 天文22 |
なし | 村上義清が越後に走る(第1回川中島の戦)。 | ||
1555 弘治1 |
5月 | 甲・越犀川に対陣するが今川義元の調停で和睦する(第2回川中島の戦)。 | ||
1555 弘治1 |
10月15日 | 高梨一族の小島修理亮が武田万につき、河南1500貫の地を給与される。 | ||
1556 弘治2 |
6月2日 | 井上左衛門尉が武田晴信から綿内領350貫文の地を与えられる。 | ||
1557 弘治3 |
4月 | 長尾景虎が善光寺に着陣。武田方の山田の枡形城(高井郡)や福島城(須坂市)などを奪う(第3回川中島の戦い)。 | ||
1557 弘治3 |
8月 | 水内郡上野原の戦(第3回川中島の戦)。 | ||
1560 永禄3 |
なし | 織田信長が今川義元を桶狭間に討つ。 | ||
1561 永禄4 |
9月18日 | 八幡原の激戦(第4回川中島の戦)。 | ||
1562 永禄5 |
なし | 仁礼衆50人が須田信頼支配下の500貫文の地を与えられる。 | ||
1563 永禄6 |
なし | 井上新左衛門が綿内3ヵ所の地を与えられる。 | ||
1564 永禄7 |
8月 | 更級郡塩崎の対陣(第5回川中島の戦)。 | ||
1567 永禄10 |
なし | 伊藤右京亮が坂田郷300貫文の地を与えられる。 | ||
1572 元亀3 |
なし | 農村が荒廃し、須坂地方からも逃散者が出る。 | ||
1580 天正8 |
なし | 須田満親が三条城開城の検使となる。 | ||
1582 天正10 |
5月 | 17人の井上衆が直江兼続から持城を構えることを許される。 | ||
1582 天正10 |
6月 | 明智光秀が織田信長を本能寺に討つ。 | ||
1582 天正10 |
7月 | 上杉景勝が須田但馬守ら7人(須田衆)に本領を安堵する。 | ||
1585 天正13 |
5月 | 須田信正が上杉景勝に誅殺される。 | ||
1585 天正13 |
6月 | 須田満親が海津城将となる。 | ||
1586 天正14 |
なし | 須田満親が万竜寺を再興する。 八町伝助・高山仁助が直江兼続から給地を与えられる。 |
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1588 天正16 |
7月 | 豊臣秀吉が刀狩令を発する。 | ||
1589 天正17 |
7月 | 豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし全国を統一する。 | ||
1589 天正17 |
なし | 須田満親が豊臣秀吉から豊臣の姓を与えられる。 | ||
1594 文禄3 |
なし | 上杉景勝の分限帳ができ、この中に信濃武士の名が多く見られる。 | ||
1597 慶長2 |
1月 | 慶長の役がはじまる。 | ||
1597 慶長2 |
なし | 上杉領で河村検地がおこなわれ、北信濃でも実施される。 | ||
1598 慶長3 |
1月10日 | 上杉景勝が秀吉より、越後・北信濃から会津への国替令と兵農分離令をうける。 | ||
1598 慶長3 |
3月 | 関一政が飯山城主、田丸直昌が海津城主となる。 | ||
1598 慶長3 |
7月18日 | 秀吉の家臣石川光吉・古田重勝が北信濃4郡の太閤検地を始める。 | ||
1598 慶長3 |
8月18日 | 秀吉が没する。 | ||
1598 慶長3 |
12月 | 田丸直正が八町村勝善寺に寺領を与える。 | ||
1600 慶長5 |
2月1日 | 田丸直正・関一政が家康によって美濃国内に移され、かわって森忠正が海津城主となり北信濃4郡を支配する。 | ||
1600 慶長5 |
9月 | 関が原の戦いがおこなわれ、森忠政は北信濃を守る。 | ||
1600 慶長5 |
なし | 森忠政が領内の総検地を始める(~7年)。 | ||
1602 慶長7 |
なし | 森検地に反対して 北信濃4郡をまきこむ土豪一揆がおこる。 |
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更新日:2024年03月26日