市長のコラム 2024年8月

更新日:2024年08月29日

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8月29日(木曜日)

2024年度須坂市総合防災訓練終了式あいさつ

8月25日(日曜日)、2024年度須坂市総合防災訓練を実施しました。防災関係機関と地域住民が「自助」「共助」「公助」のもとに連携し、各種の防災訓練を実施し、地域防災体制の強化を図りました。
訓練終了式で私は、次のように挨拶申し上げました。

早朝からの大勢の皆さんの訓練参加に対してお礼を申し上げます。
今年は1月1日に発生した令和6年能登半島地震をはじめ、梅雨前線の停滞、台風による大雨により、各地で甚大な被害が発生し、尊い命が失われています。また南海トラフ地震注意情報が発表されるなど、風水害や地震などあらゆる自然災害が、発生するおそれがある状況です。
犠牲になられた方々に謹んで哀悼の意を表すとともに、被災されたすべての方に心からお見舞い申し上げ、一日も早い復旧・復興を願っております。

自然災害に対しては日ごろからの準備や今回のような防災訓練への参加など、いざという時に備えることが重要です。
本日の訓練は、記憶に新しい令和元年東日本台風を教訓とした水害対応に特化しました。訓練の柱として「住民の皆さんの避難場所への避難と行動」、「市役所庁内タイムラインに基づいた市職員の各種行動の確認・実践」を行いました。また、区長はじめ関係機関の皆さんにお集まりいただき、災害時の連携についての確認を行いました。

今回初の試みとして、北部体育館・東中学校・高甫小学校の3カ所同時に訓練会場を開設し、それそれで住民の皆さん、消防団はじめ関係機関の皆さん、市職員が連携・協力し、設置・運営訓練を行いました。
それぞれの訓練会場で、様々な体験をしていただきました。北部体育館では飼育動物同行避難訓練、聴覚に障がいのある方とのコミュニケーションツールとして今年度導入した「アイドラゴン」の運用訓練を行いました。今後、手話が必要な場面での有効なツールとなります。
東中学校では東中学校生徒に避難所開設・運営訓練と応急救護訓練に参加していただきました。
高甫小学校では福祉避難所との連携訓練を行い、災害時に支援が必要な災害時要配慮者を、より安全な場所へ避難誘導する手順を確認しました。
私をはじめ、市役所幹部職員は市役所に設置した災害対策本部と避難所想定の市内3会場との情報連絡・共有訓練を行いました。実際の災害の際に、複数の避難所を設置した場合を想定して行いました。

災害対策で日本における第一人者、東京大学大学院情報学環総合防災情報研究センターの松尾一郎客員教授は、「風水害の場合は、事前に予測できることから、災害に関する情報を早く伝え、早く行動を起こし、早く避難することにより、犠牲者をゼロにすることができる」とおっしゃっています。

 

須坂市は、避難情報の空振りを恐れず、早めに出すことに努めています。(私は自ら防災行政無線を活用して避難情報を発信しています。過日、開催された水害サミットで、首長が防災行政無線で避難指示を放送した際に、売名行為との批判があったということをお聞きしました。須坂市の場合には、そのように穿った見方をする市民はいないことが嬉しいことです。)
防災体制を実効性のあるものとし、地域全体の災害対応力を高めるためには、防災関係機関・地域住民が「自助」「共助」「公助」のもと、相互に連携し活動することが重要です。特に災害発生直後は「自助」「共助」が重要となります。加えて「近助」が大切といわれています。

 

「自助」としては、家庭でのハザードマップ確認、食料・飲料水の備蓄や非常持ち出し品などの確認をしていただく、「共助」としては、近所や自治会内での避難訓練等の実施、災害発生時には避難の声掛けをしていただくなど、いつ発生するのかわからない災害に備え、自分でできること、家族でできること、隣近所でできることを考え、相互に助け合うことが重要です。

昭和56年(1981年)8月23日に仁礼地区を襲った土石流は、一瞬にして10人の尊い命を奪い去る大参事となりました。犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠を捧げます。毎年8月23日には、仁礼町が被災現場で慰霊祭を開催していただいています。長年にわたり継続して慰霊祭を開催されていることに心から敬意を感じます。
いざという時に命を守る行動ができるよう、防災訓練の実施と参加、家庭での備蓄など、今後も災害に備える行動をとり続けていただくとともに、本日参加いただいた皆さんに改めてお礼を申し上げ、終了式のあいさつとさせていただきます。

8月22日(木曜日)

「漫述」謗者任汝謗 嗤者任汝嗤 天公本知我 不覓他人知(佐久間象山)

16歳で中国から帰国し、日本在住38年になる北陸在住の中国帰国者(注1)の女性からお話を聞く機会がありました。数時間にわたる彼女のお話から、多くのことを学びました。
彼女はさまざまな、いわゆる「苦労」をされましたが、「苦労と思っていない。全て勉強になった。自分は人に恵まれた」と前向きでした。
日本に帰国した16歳当時、日本語をほとんど話せなかったので、高校進学はあきらめ就職しようと考えましたが、中学校の担任の教師から進学を勧められ、高校に進学しました。高校では、体育などはクラスメイトと一緒に行い、そのほかの授業は、授業のない教師から一対一で教えてもらったそうです。
また、彼女のお父さんは、日本語はほとんどできなかったのですが、どの仕事も誠実にされ、愚痴などはこぼさなかったそうです。

彼女が勤める会社の社長が「彼女は社員の中で一番優秀です」と褒めると、「そうなるように頑張ります」と答えるほど機転もあり、謙虚です
彼女は中国語と日本語を話せますので、両方の言語と感性で、他人の行動や言葉を解釈しているそうです。その中で感じた日本人と外国人との大きな違いは、日本人はグループを作り他人を意識するが、外国人は自分を主体に行動する、とのことでした。
彼女の話を聞いた時、市長就任後間もない時期に、南信に住む詩吟の師範から教えていただいた佐久間象山の詩「漫述(注2)」を思い出しました。

『謗者任汝謗 嗤者任汝嗤 天公本知我 不覓他人知』
「けなす者はぞんぶんにけなすがよい。あざわらう者は思い切りあざわらうがよい。けなすもあざ笑うも君たちの勝手にさせておこう。天の神だけは、わたしの私心のないことを知っているはずであるから、他人に理解してもらおうなどとは思わないのである」という意味です。佐久間象山のような人でさえも、自分自身を鼓舞する詩を詠まずにはおれなかったのだと感じています。
詩吟の師範は、私に市長としての覚悟を教えてくださったと感謝しています。

彼女は、働きながら、困っている人を自分の経験を生かして支援したいとのことでした。
8月は平和と中国帰国者について考えるきっかけにもなりました。

 

(注1)中国帰国者
1972年の日中国交正常化以降、再開された肉親調査や帰国施策によって帰国した「中国残留邦人」(「中国残留孤児」や「中国残留婦人」)とその家族のことで、中国から呼び寄せた家族等も含めて言うようになっている。

中国残留日本人は、帰国当初は一時帰国の扱いだったが、1980年代から、日本での定着・自立を促進するため、彼らに対し本格的に支援策が講じられるようになってきた。これらの支援事業の関係者の中では、「中国残留日本人」よりも「中国帰国者」という呼称を使うようになっている。ここで注意すべきことは、1972年以前、つまり、終戦後から始まった引揚事業で帰還できた日本人帰国者(引揚者)とは区別されることである。「中国帰国者」とは、その引揚事業で漏れてしまい、帰国する機会を失った中国残留日本人のうち、1972年以降にようやく帰国できた人々のことなのである。

「中国帰国者」って知っていますか? 第1回 「中国帰国者」ということば 興津正信(日本語教師)(一般財団法人霞山会)

 

日本に永住帰国した中国・樺太(サハリン)残留邦人とその家族(帰国者)の現況
長年中国やサハリン(旧ソ連地域含む)での生活を経て日本へ帰国します。したがって、言葉や生活習慣上の違いから日本社会の中で大きなハンディを抱えます。一世はもとより、就労、就学世代の二三世にとっても職場や近隣、学校などで、さまざまな適応上の困難に直面します。また、最近では帰国者一世、二世世代の高齢化も進み、地域社会での孤立や老後の介護等が深刻な問題ともなっています。一方、戦後70年以上たった現在、「残留邦人」についての社会的認知度も下がり、日本社会側に帰国者を理解し、受け入れる土壌が失われていっている現状があります。帰国者にとってはこのような時代の流れが日本社会の中での生きづらさにも繋がる要因の一つともなっています。

中国帰国者支援交流センター

 

(注2)漫述
思いつくままに述べるという意味

須坂市は2023年に満蒙開拓平和記念館(下伊那郡阿智村)の自治体パートナーに加入し、歴史継承を支援しています。

(広報須坂市2024年8月号「市長のいきいき通信」に加筆修正)

2024年8月15日(木曜日)

長野県連合婦人会主催「2024年世界をひとつに 平和のつどい」

2024年8月9日(金曜日)、メセナホールで、一般社団法人長野県連合婦人会主催「2024年世界をひとつに 平和のつどい」が開催されました。女性による平和運動を継続し「平和な地球を子どもたちに残そう」という願いをこめて開催されるつどいです。
私は、次のような祝辞を申し上げました。
(記録の意味もあり実際の祝辞より長文になっています。)

長野県連合婦人会のみなさまにおかれましては、日頃より地域の婦人会活動、社会貢献活動等にご尽力いただいていることに心より敬意と感謝を申し上げます。
本日、8月9日は長崎に原爆が投下された日です。この日に「2024年世界をひとつに 平和のつどい」が須坂市で開催され、平和について考える機会を設けていただけることに、地元として心から感謝とご歓迎を申し上げます。

中学生の頃、尊敬する叔父から、長崎で被爆した永井隆医師の著書「長崎の鐘」や「この子を残して」などの本をいただき、読んだことを思い出しました。

本日は講師として、オール沖縄会議共同代表で、パリテ・カフェ沖縄共同代表の糸数慶子さんにお越しいただいています。パリテ・カフェの「パリテ」とは、同等、同一を意味するフランス語だそうです。

沖縄といえば、2023年3月に長野県と沖縄県は観光交流連携協定を締結しました。現在、須坂市の旧小田切家住宅では、沖縄県長野県観光交流協定記念展示「琉球の歴史と伝統工芸」を開催しています。琉球の伝統工芸である紅型(びんがた)と琉球の歴史と風習を語る創作人形を展示しています。NHK連続テレビ小説「ちむどんどん」で使用された婚礼衣装「夫婦鶴に松竹梅」、2023年に内閣総理大臣賞を受賞した「雲に椿牡丹」なども展示されていますので、お出かけいただければ幸いです。

また、2023年2月2日に沖縄県平和祈念公園で開催された「信濃の塔追悼式・慰霊祭」に参加した際、「ふじ学徒隊」の子孫の方と隣席になりました。私はこの時初めて小池勇助軍医と「ふじ学徒隊」を知りました。
ふじ学徒隊の小池勇助は現在の佐久市の生まれで、戦中に軍医として沖縄に出征し、女子学徒隊(ふじ学徒隊)の隊長となった方です。学徒隊解散の最後の訓示で、自決を覚悟する女子学徒たちに「必ず生き残って家族のもとに帰りなさい。絶対に死んではならない」と諭したそうです。そして「悲惨な戦争の最後を銃後の国民に語り伝えてくれ」と呼びかけ、一人ひとりと握手を交わし、女学生たちを集団自決させなかったそうです。

 

本日の会場であるメセナホールのロビーに、縦2.7メートル、横1.6メートルの白黒写真パネルが展示されています。

1945年8月6日に広島に原爆が投下され、そのわずか約一か月後、爆心地から近い場所に咲いたカンナの花の写真です。75年間は草木も生えないといわれた広島で咲いたカンナの花は、人々に生きる希望を与えました。その写真パネル(「焦土に咲いたカンナの花」)は広島平和記念資料館に展示されていましたが、広島平和記念資料館のリニューアルに伴い、ご縁があり2017年に須坂市に寄贈いただき、現在メセナホールに展示されています。(なお、広島平和記念資料館の地下ホール入口には、縮小されたカンナの写真パネルが展示されています。)

本日ロビーでは、カンナの写真パネルと並んで映画ポスターによる「問いかける映画~第二次世界大戦・太平洋戦争とは~」展を開催しています。合わせてご覧ください。(このポスターは小林創さんから寄贈いただいたものです)

司会の方が、私の祝辞終了後「焦土に咲いたカンナの花」とコメントをされ、カンナの写真についてご存知であったことに嬉しさと感謝の念を感じました。

1985年(昭和60年)、須坂市は日本国憲法に掲げられた平和主義の理念を市民生活の中に生かすことが地方自治の基本理念の一つであるとの思いの下、核兵器の廃絶を全世界に向けて訴え、美しい自然と輝かしい伝統を子々孫々に継承するため「非核平和都市」宣言を行いました。

そして、非核平和宣言10周年ならびに戦後50年の節目にあたる1995年から毎年、須坂市独自事業として「中学生平和学習事業」を行ってきました。市内の4つの中学の代表生徒が広島の平和記念式典に参加し、記念資料館の見学や被ばく体験者のお話を聞くなどし、戦争の悲惨さと平和について認識する大切な学習となっています。今年度も8月5日から1泊2日で8名の生徒が訪問しました。広報須坂8月号には、昨年参加した生徒の感想文を掲載しています。

戦後79年が経ちますが、世界では未だに、国家間の対立や地域紛争、領土問題、宗教間の対立によるテロ行為など、平和に関し危惧しなければならないことが絶えません。私たち一人一人が自らのこととしてとらえ、どうしていくか考えることが大切です。
平和の大切さ、真実というバトンを子どもたちに渡すのは私たち大人の責務であります。この活動がますます発展し広がっていくことを祈念申し上げ、歓迎のあいさつとさせていただきます。

2024年8月8日(木曜日)

「世界を狙うには10年で1万時間の練習が必要」

パリオリンピック卓球女子シングルスで銅メダルを獲得した早田ひな選手。早田選手の指導者は、「幼少期から、継続する能力はずばぬけていた」と語っています。「牛乳を飲めと言えば毎日1リットル飲み、ランニングを指示すれば毎日3キロ走る。雪が降っても走り、『休め』と言っても休まないから、こちらが困った」と苦笑していました。
この指導者は、北京・ロンドン両オリンピックに出場した岸川聖也さんら強豪選手も育てた方です。その、年間1200~1300時間の練習を行うチャンピオンコースは、故・荻村伊智朗さんの言葉「世界を狙うには10年で1万時間の練習が必要」から誕生したそうです。

荻村伊智朗さんといえば世界選手権を何度も制した卓球選手ですが、私は、長野冬季オリンピック(1998)の組織委員会職員で、荻村さんの秘書も務めたHさんからお聞きした話を思い出します。国際卓球連盟会長の荻村さんが、なぜ長野冬季オリンピックの招致活動に尽力されたのでしょうか。
1970年、荻村さんは後藤こう二(「こう」は金偏に甲)・日本卓球協会会長と共に中国を訪れ、周恩来首相と会談。当時、世界から孤立していた中国の、世界卓球選手権名古屋大会(1971)復帰の立役者となりました。この「ピンポン外交」以来、荻村さんは、サマランチIOC会長はじめ各国のIOC委員たちからの信頼がすこぶる厚く、これこそが長野が冬季オリンピック開催地に決定した要因ともいわれています。

日本オリンピック委員会(JOC)国際委員長として世界中を飛びまわった荻村さん。秘書として同行したHさんは、「機内で真剣に書類に目を通していた荻村さんの姿が忘れられない」と言います。「荻村さんは卓球の天才だったが、コミュニケーションの天才でもあった。そして、努力の人だった。」

荻村さんは、祖父が長野県木曽郡楢川村(現・塩尻市)のご出身です。塩尻市では荻村さんを記念して「楢川荻村杯オープン卓球大会」を長野県卓球連盟と共催していますが、この楢川荻村杯バンビの部(小学生2年生以下)を、わずか6歳で優勝したのが伊藤美誠選手です。

伊藤美誠選手は、その後、日本を代表する卓球選手に成長され、須坂市ゆかりの企業「スターツ」に所属して大活躍なのはご存知のとおりです。伊藤選手の名前を冠した卓球大会「伊藤美誠杯」も開催されています。

荻村さんは、1994年、長野オリンピック開催を待たずに62歳という若さで逝去されました。
須坂市卓球協会の橋本和江・元会長は、学生時代、荻村さんと混合ダブルスを組んでおられたとか。
パリオリンピックの日本選手の活躍に、信州須坂とのご縁を感じる盛夏です。

2024年8月1日(木曜日)

須坂市須坂伝統的建造物群保存地区シンポジウム

7月28日(日曜日)、須坂市須坂伝統的建造物群保存地区シンポジウムを開催しました。

2024年5月17日に須坂市須坂伝統的建造物群が、重要伝統的建造物群保存地区(以下「重伝建地区」という)に選定されることは、5月23日のメールマガジンで述べましたが、今回のシンポジウムも踏まえ、改めて述べさせていただきます。

私は、シンポジウムに参加されるみなさんに、須坂市には地域資源が多いことを知っていただきたいので、地域資源をモチーフにしたTシャツで参加しました。

須坂市と同日に重伝建地区選定の答申がされた新潟県佐渡市の職員もシンポジウムにご参加いただきました。佐渡市はシンポジウムの前日(7月27日)、「佐渡島の金山」が世界文化遺産として登録されることが決定しました。重伝建とは全く異なりますが、同じ重伝建地区選定見込みの市として嬉しく感じました。

須坂の蔵の町並みの価値が広く認識されたのは、昭和60年(1985年)から地元紙である須坂新聞に特集記事が掲載され、その美しさが改めて認知され保存活動の機運が高まり、信州須坂町並みの会が発足されたことから始まります。

(須坂新聞の特集記事は「信州須坂の町並み 風土が生んだ蔵造りの民家群(丸山武彦:絵/青木廣安:文)」として須坂新聞社から出版されました。市立博物館に原画が保存されていましたので、重伝建地区選定見込みということで、今回原画の展示会を開催する運びとなりました。10月27日まで笠鉾会館ドリームホール3階にて開催しています。須坂新聞での特集も書籍もモノクロでしたが原画は水彩画です。ぜひご覧下さい。)

須坂市はこの市民の活動に呼応し、昭和64年(1989年)から伝統的建造物群保存対策調査を実施し、翌年調査報告書を刊行しましたが、都市計画道路整備事業との折り合いがつかなかったため、重伝建選定への動きは棚上げとなりました。
その後、須坂市では市の単独や国土交通省の補助金を活用しながら保存事業を行ってまいりましたが、平成22年(2010年)に残存状況の調査を行ったところ、約半数の建造物が解体されていることが判明したため、町並み保存が急務となり、再び重伝建地区選定への動きが始まりました。令和2年(2020年)からの伝統的建造物群保存対策調査を始めとして、順次選定への手続きを進め、この度の答申もって足掛け30年以上に渡る努力が実り選定の見込みが立ちました。(これらの動きは、市長のリーダーシップというより、歴代市役所職員の強い思いが核です。私はこのような市職員に誇りと感謝を感じています。)

今回のシンポジウムは選定の答申を記念するとともに、須坂の町並みを次世代に残していくことと重伝建制度や保存地区の価値などについて改めて知っていただくことを目的とし、2つの講演とパネルディスカッションを開催しました。
講演は、國學院大學観光まちづくり学部学部長の西村幸夫教授と信州大学工学部の土本俊和教授にお願いしました。西村教授には「保存地区のこれまでとこれから」について、土本教授には「保存地区の特長と価値」についてそれぞれご講演いただきました。お二人には、昭和の伝統的建造物群保存対策調査から今日に至るまでの長きにわたり、須坂の町並み保存に携わっていただくとともに、ご指導いただきました。
市内にあります石碑の案内板は、西村教授のご指導で東京大学の学生さんに設置していただきました。土本教授は、新たに山丸組に関する製糸業の調査をされる予定とお聞きしております。新たな出発に相応しい調査です。先生方には感謝申し上げます。

パネルディスカッションは「重伝建選定への取り組みとこれからのまちづくりについて」をテーマにおこないました。コーディネーターに元塩尻市文化財課担当課長・伝建保存審議会委員の渡邊泰氏、パネリストには文化庁文化財第二課主任文化財調査官の梅津章子氏、信州大学の梅干野成央准教授、須坂景観づくりの会の小林義則氏、ゲストハウス蔵の山上万里奈氏、そして私も参加させていただき、それぞれの立場でディスカッションを行いました。今後の保存や活用のヒントとなれば幸いとです。

これからが新たなスタートとなりますが、市役所のみでこの事業を行っていくことは困難です。引き続き、市民の皆さんのご協力をお願いします。


 

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