須坂を知る-須坂の製糸業

更新日:2026年03月26日

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須坂を知る、須坂の製糸業のイメージ写真。製糸工場で働く工女たちと、当時の「とうこう社」のラベルが写っている

 

須坂は善光寺平東北部に位置し、江戸時代には堀家一万石の城下町(館町)で、明治・大正・昭和前期には近代製糸業の町として栄えました。

群馬県富岡市、長野県岡谷市とともに輸出用生糸の生産地として発展したので、今も大壁づくりの豪壮な製糸家の構えや、製糸の繁栄にともなう町屋の蔵の町並みなど、製糸産業勃興生成期における中小製糸家の町割りや製糸遺構・遺産を数多くみることができます。 

須坂の製糸業のはじまり

須坂を含む長野盆地は、千曲川の支流がつくる扇状地が発展しており、桑の栽培適地でした。また、年間降水量1,000ミリメートル以下という寡雨気候は蚕の飼育に適しており養蚕の発展を助けました。

日本初の製糸結社「東行社」設立

須坂の製糸業は、18世紀から始まりますが、明治5年の官営富岡製糸場が操業を始めると、須坂の糸師仲間(商人)たちが富岡・前橋の近代製糸工場を視察し、明治7年には早くも須坂に洋式製糸場を設立しました。翌8年には同業者が集まり、日本初の製糸結社「東行社(とうこうしゃ)」を設立し、優良製糸の大口出荷体制を整えました。

「東行社」は、小規模製糸工場が集まった共同組織でした。

太さのそろった糸を一度に大量に出荷してほしいという横浜市場の要請に応えて、全国に先がけて作った共同出荷の組織でした。製糸の品質の向上をめざし、製糸方法を全ての行程にわたって同一にすること目指し、工女の雇い入れや賃金、待遇などの協定を細かく記しました。また、相互に社員が立ち入り検査することにより、製品の統一を図るなど共同での出荷が行われました。

「とうこうしゃ」のラベル

「東行社」という名称は、須坂の糸が東の横浜へそしてアメリカへ行くという意味で名づけられたものです。

共同の源流 東行社-同心協力しての心-

東行社は明治10年「東行社申合書」をもって内務省に結社の申請を行いました。

申し合わせ書には「製糸結社するわけは、同心協力して製糸の営業をますます盛大にすることにある。」と設立の意義をのべています。

設立にあたったのは穀商、油商など商家出身者が多く、彼らは当時20代、30代の若さでした。

明治10年 東行社創立時の役員の年齢表
役職 氏名 年齢
社長 小田切 武兵衛 30代半ば
副社長 青木 甚九郎 56歳
副社長 遠藤 万作 57歳
評議員 持田 藤治郎 23歳
評議員 青木 松之助 33歳
評議員 小田切 豊太郎 29歳
評議員 小柳 勘兵衛 32歳
評議員 青木 中兵衛 47歳

東行社設立加盟社の前業種と件数の一覧
業種 件数
穀商 22件
油絞商 12件
木綿商 11件
仲買商 4件
農業 4件
煙草商 3件
酒造業 3件
醤油商 2件
荒物商 2件
材木商 2件
紺屋 2件
士族 2件
雑貨 2件
その他 3件


平成19年11月に経済産業省の「近代化産業遺産」に認定された東行社跡地と俊明社跡地

とうこうしゃの跡地写真

明治8年に成立の東行社跡地

しゅんめいしゃの跡地写真

明治18年 東行社に続き成立した製糸結社「俊明社」跡地

地域の力を生かした、用水と水車

須坂は名前のとおり坂の町であり、町の用水は屋敷裏を流れる裏川用水でした。

この用水路を利用し、江戸中期から水車を設けて精米や搾油業が行われていました。この動力をいち早く器械製糸の動力として利用しました。

見取り図の写真

水車製糸工場見取り図(梅本氏の工場)

製糸王国「山丸組」の隆盛

明治中期には個人企業における規模拡大も進み、のちに製糸王と言われた越寿三郎が縁者の製糸工場を中心に「山丸組」を結成し、県外にも埼玉県大宮市、愛知県岡崎市、新潟県新発田市などに製糸工場をつくるなど、日本の製糸業における十指に入る大企業に成長しました。


 

大宮製糸場の写真

やままる組、大宮製糸場の写真

山丸組は日本45都道府県に繭買付所を設け原料繭の購入には本社との連絡に電信を用い、現在もその電信符号(暗号表)が保存されています。

旧越家住宅

製糸王と呼ばれた、越寿三郎(こし じゅさぶろう)ゆかりの建物。明治38~39年ごろに屋敷地を譲り受け、息子のために改築したと伝わっています。
かつてここ一帯は山丸組の敷地で住宅の南側に山丸組本店があり、製糸工場や回遊式の庭園がありました。

須坂市登録有形文化財に指定されています。

山丸一番館と呼ばれる、旧・こしけ住宅の外観写真

平成19年11月 経済産業省の「近代化産業遺産」に認定


 

越家にはいち早く電話が入り、電話番号が須坂局1番であったことから「一番館」の名前で市民に親しまれています。(現在の電話番号は、026-245-0001)

製糸業繁栄による、社会資本の拡充

発電所の設立

越寿三郎は、ランプによる製糸工場の火災の防止と、より明るい場所で仕事ができるように、明治36年に信濃電気株式会社を設立しました。翌37年には発電所を完成させ、その電力を利用したカーバイトの生産をはじめるなど電気、化学事業を進めました。

セピア色のモノクロ写真、明治37年に設立した当時の発電所写真。平屋で瓦屋根、建物の下を川が流れている。

米子発電所(明治37年)


学校、銀行の設立

また、製糸業の資金調達を図るため銀行の設立や、「商人にも学問が必要」と息子の泰蔵を設置者として須坂商業学校を創立し、須坂の社会資本の充実に貢献しました。

信陽銀行の建物、瓦屋根、しっくい壁の蔵のような建物。二階建て。

明治30年設立の信陽銀行の建物


 

須坂商業学校落成式の写真。学校の前に、商業学校、祝落成、須坂町と書かれた大きな柱。その前に男性が5人並んでいる。

大正15年4月「須坂商業学校」設立


 

大規模浄水場の設立

須坂は水道敷設及びその近代化において地方都市としては早い時期に施設整備されました。それは須坂の水(鉱毒水)が生糸の品質劣化をきたしていたことに気づき水道敷設が急がれたためでした。

明治20年には簡易水道が敷設され、大正15年には大規模浄水場(坂田浄水場)が竣工しています。坂田浄水場の施設の一部は現在も利用されています。

坂田浄水場の写真。坂田山のふもと、斜面に階段状に浄水施設がつくられている。

平成19年11月 経済産業省の「近代化産業遺産」に認定


 

電車の敷設にも尽力

越寿三郎は電車の敷設に尽力しまし、大正15年に須坂・長野間を電車が開通しました。

電車開通についての新聞記事をスクラップした資料の写真。

日本の経済活動の舞台となった須坂

製糸業は、別名「生死業」と言われたほど時代の経済状況に左右されました。特に大正3年不況と大正9年の戦後(第一次世界大戦)恐慌により、いくつもの製糸家が糸価の変動に翻弄され製糸業から手を引いていきました。

こうして廃業した製糸工場は大倉製糸や片倉組、山丸組など全国的な規模の大企業に引き継がれていきました。

大倉製糸は大倉財閥につながる大資本の系統であり、片倉組は岡谷を発祥とする製糸業出身の財閥、そして個人企業として全国一の規模を誇った須坂の山丸組も加えて、須坂はこの時期日本の経済活動に大きな役割を果たしました。


 

大倉家とステンドグラス

ステンドグラスの写真

須坂市指定文化財・須坂市立博物館所蔵
平成19年11月 経済産業省の「近代化産業遺産」に認定

写真のステンドグラスは、財閥大倉喜八郎を社長とする大倉製糸須坂工場の応接室と事務室の境にはめこまれていたもので、製糸業の盛衰とともに持ち主が転々とし、現在は博物館の所蔵品となっています。

直径1.5メートルの円形で、中心に大倉喜八郎の最初の叙勲である勲四等旭日小授章をかたどり、その周囲に大倉家の家紋(五階菱)と糸枠、桑の葉がデザインされています。

大倉製糸の成立は大正2年10月で、大倉は生糸の海外輸出をねらって製糸工場の建設を計画していました。当時の大日本蚕糸会顧問・渋沢栄一は、大倉に“須坂の製糸王”越寿三郎を紹介。大倉は越に工場建設推進の指揮を一任し、大正7年、大倉製糸須坂工場が発足しています。

鮮やかに輝くステンドグラスは、須坂の製糸業が最も華やかであったころの面影を現在に伝える貴重な遺産となっています。


 

田中製糸と富士通

田中製糸は明治13年創業、大正11年に片倉組と合併して、一時は従業員が650人にものぼり「東行社」の中核的存在として須坂の発展に貢献しました。

下の写真の建物は、明治末期田中製糸の迎賓館として建築されたものです。大正9年の戦後恐慌の後、大正11年片倉組製糸と合併。以来、片倉組の迎賓館として、昭和17年からは富士通須坂工場の施設として利用されました。

田中製糸迎賓館正面写真

旧田中製糸迎賓館

富士通工場内に立つ田中製糸迎賓館、後ろ側かみた写真

元富士通 須坂工場 正門奥の迎賓館写真

現在まで続く、製糸業の遺産

須坂の製糸場で働く工女は北信地方を中心に新潟県頚城地方からも募集され、最盛期には6,000人を超えました。

工女たちの賄いのため、須坂には味噌・醤油の醸造所が多くありました。


 

塩屋醸造

特に塩屋醸造は江戸時代から続く老舗として、現在も古くからの蔵を醸造所として利用するとともに明治期の圧搾機や江戸から明治期の桶を使用して味噌・醤油を加工しています。

塩屋醸造の店舗正面入り口写真
道路に面して、上店、門、店が並ぶ写真

道に面して醤油蔵と一体となった上店、門、店が並び、奥に主屋がつながり、敷地の奥には醸造蔵が建つ。

平成19年、主屋を含め10棟の蔵が国の有形文化財に登録されました。


 

臥竜公園と竜ケ池

臥竜公園は大正15年林学博士本多静六の設計により作られ、工女たちの遠足娯楽の場所となっていました。

しかし、須坂の製糸業は昭和恐慌とともに急激に衰退し、昭和6年に行われた竜ケ池の築造工事は世界恐慌による失業者の対策事業として行われました。

公園は現在も池に水を湛え市民の憩いの場として往時を偲ばせ、現在は近くに動物園や博物館などの施設が揃い、春の桜をはじめ四季折々に訪れる人を楽しませています。

臥竜公園のりゅうがいけの写真。池のまわりに桜が咲き、遊覧ボートが浮かぶ。

平成19年11月 経済産業省の「近代化産業遺産」に認定


 

第二次大戦と軍事疎開工場

第二次大戦中は製糸業の諸施設とともに製糸工女は労働力として軍事疎開工場に継承されました。

第二次大戦後、富士通を中心とした疎開工場が須坂に定着し、今日見る電子機械部品・組立工業の集積地となりました。この背景には、製糸業時代に培われた生産管理技術や工女たちの豊富で質の良い労働力などが果たした役割が大きいと言えます。

松川林間工場団地・日滝原工場団地など須坂には現在も電子機械部品・組立工業が操業しています

須坂市の産業遺産活用に向けた取り組み

平成元年:伝統的建造物群保存対策調査

平成4年~:歴史的地区環境整備街路事業

平成5年~:須坂地区歴史的景観保存対策事業

平成7年~:街なみ環境整備事業

平成13年:「須坂の製糸業」発刊

平成16年:産業考古学会による須坂の製糸遺産施設視察

平成17年:国際会議「産業観光国際フォーラム in 愛知・名古屋」において「須坂市の製糸遺産と蔵の町並み保存と観光への活用について」発表

平成17年:ヘリテージングバスツアーを行い小学生対象に近代遺産を訪ねるツァーを実施

平成18年:産業考古学会全国大会(須坂大会)の招致開催。学会報告会、市民向けの講演会、市内産業遺産ウォーキングを開催

平成19年:経済産業省「近代化産業遺産」に須坂市の製糸関係遺産が認定

経済産業省の近代化産業遺産に認定された須坂の遺産

【13.『上州から信州そして全国へ』近代製糸業発展の歩みを物語る富岡製糸場などの近代化産業遺産群】のうちのひとつとして、須坂市の製糸関連遺産が選ばれています。


 

須坂市の製糸関連遺産

  • 旧田尻製糸繭倉(現・ふれあい館まゆぐら)
  • 旧越寿三郎家住宅
  • 旧山一製糸・旧牧新七家住宅
  • 俊明社跡
  • 東行社跡
  • 旧大倉製糸須坂工場ステンドグラス(須坂市立博物館所有)
  • 坂田浄水場
  • 臥竜公園

参照

  • 「須坂の製糸業-その成立期の歴史と風土-」平成18年産業考古学会講演資料 青木廣安氏
  • 「須坂の近代化産業-転換モデルを中心に-」(須坂市作成資料)
  • 「須坂の製糸業」平成13年発行

この記事に関するお問い合わせ先

社会共創部 文化スポーツ課
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