須坂の製糸業 -経済産業省認定 近代化産業遺産-

更新日:2024年05月21日

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須坂は、善光寺平東北部に位置し、江戸時代には堀家1万石の城下町(館町)でした。明治・大正・昭和前期には近代製糸業の町として栄えました。群馬県富岡市、長野県岡谷市とともに輸出用生糸の生産地として発展したので、今も大壁づくりの豪壮な製糸家の構えや、製糸の繁栄にともなう町屋の蔵の町並みなど、製糸産業勃興生成期における中小製糸家の町割りや製糸遺構・遺産を数多くみることができます。 

製糸家の家(旧牧家)の外観の写真

-製糸家の家(旧牧家)- 現在のクラシック美術館

平成19年11月 経済産業省の「近代化産業遺産」に認定

須坂の製糸業のはじまり

須坂を含む長野盆地は、千曲川の支流がつくる扇状地が発展しており、桑の栽培適地でした。また、年間降水量1,000ミリメートル以下という寡雨気候は蚕の飼育に適しており、養蚕の発展を助けました。

千曲川上空から見た須坂市の写真

千曲川上空から見た須坂市

東行社の商標の写真

東行社の商標

須坂の製糸業は、18世紀から始まりますが、明治5年の官営富岡製糸場が操業を始めると、須坂の糸師仲間(商人)たちが富岡・前橋の近代製糸工場を視察し、明治7年には早くも須坂に洋式製糸場を設立しました。翌8年には、同業者が集まり日本初の製糸結社「東行社」を設立し優良製糸の大口出荷体制を整えました。

「東行社」は、小規模製糸工場が集まった共同組織でした。太さのそろった糸を一度に大量に出荷してほしいという横浜市場の要請に応えて、全国に先がけて作った共同出荷の組織でした。製糸の品質の向上をめざし、製糸方法を全ての行程にわたって同一にすること目指し、工女の雇い入れや賃金、待遇などの協定を細かく記しました。また、相互に社員が立ち入り検査することにより、製品の統一を図るなど共同での出荷が行われました。

「東行社」という名称は、須坂の糸が東の横浜へそしてアメリカへ行くという意味で名づけられたものです。

共同の源流 東行社 -同心協力しての心-

東行社は明治10年「東行社申合書」をもって内務省に結社の申請を行いました。申し合わせ書には「製糸結社するわけは、同心協力して製糸の営業をますます盛大にすることにある。」と設立の意義をのべています。
設立にあたったのは穀商、油商など商家出身者が多く、彼らは当時20代、30代の若さでした。

明治10年東行社創立時の役員の年齢
役職 氏名 年齢
社長 小田切武兵衛 30代半ば
副社長 青木甚九郎 56歳
副社長 遠藤万作 57歳
評議員 持田藤治郎 23歳
評議員 青木松之助 33歳
評議員 小田切豊太郎 29歳
評議員 小柳勘兵衛 32歳
評議員 青木中兵衛 47歳
東行社加盟社の前職
業種 件数
穀商 22
油絞商 12
木綿商 11
仲買商 4
農業 4
煙草商 3
酒造業 3
醤油商 2
荒物商 2
材木商 2
紺屋 2
士族 2
雑貨 2
その他 3
東行社跡の写真

東行社跡の写真

明治8年 「東行社」成立
平成19年11月 経済産業省の「近代化産業遺産」に認定

俊明社跡の写真

俊明社跡の写真

明治18年 東行社に続き製糸結社「俊明社」成立
平成19年11月 経済産業省の「近代化産業遺産」に認定

地域の力を生かした、用水と水車

須坂は名前のとおり坂の町であり、町の用水は屋敷裏を流れる裏川用水でした。この用水路を利用し、江戸中期から水車を設けて精米や搾油業が行われていました。この動力をいち早く器械製糸の動力として利用しました。

水車製糸工場見取り図

水車製糸工場見取り図(梅本氏の工場)

製糸王国「山丸組」の隆盛

明治中期には個人企業における規模拡大も進み、のちに製糸王と言われた越寿三郎が縁者の製糸工場を中心に「山丸組」を結成し、県外にも埼玉県大宮市、愛知県岡崎市、新潟県新発田市などに製糸工場をつくるなど日本の製糸業における十指に入る大企業に成長しました。山丸組は日本45都道府県に繭買付所を設け原料繭の購入には本社との連絡に電信を用い、現在もその電信符号(暗号表)が保存されています。

山丸組大宮製糸場の外観の白黒写真

山丸組大宮製糸場

旧越家住宅(登録有形文化財)

越寿三郎ゆかりの建物です。明治38~39年ごろに屋敷地を譲り受け、息子のために改築したと伝わっています。かつてここ一帯は山丸組の敷地で住宅の南側に山丸組本店があり、製糸工場や回遊式の庭園がありました。越家にはいち早く電話が入り、電話番号が須坂局1番(現在は026-245-0001)であったことから「一番館」の名前で市民に親しまれています。

旧越寿三郎家住宅の外観の写真

旧越家住宅
平成19年11月 経済産業省の「近代化産業遺産」に認定

製糸業繁栄による、社会資本の拡充

越寿三郎は、ランプによる製糸工場の火災の防止と、より明るい場所で仕事ができるように、明治36年に信濃電気株式会社を設立し、翌37年には発電所を完成させ、その電力を利用したカーバイトの生産をはじめるなど電気、化学事業を進めました。また、製糸業の資金調達を図るため銀行の設立や、「商人にも学問が必要」と息子の泰蔵を設置者として須坂商業学校を創立し、須坂の社会資本の充実に貢献しました。

須坂は水道敷設及びその近代化において地方都市としては早い時期に施設整備されました。それは須坂の水(鉱毒水)が生糸の品質劣化をきたしていたことに気づき水道敷設が急がれたためでした。明治20年には簡易水道が敷設され、大正15年には大規模浄水場が竣工しています。

坂田浄水場の外観の写真

大正15年竣工した坂田浄水場
施設の一部は現在も利用されています
平成19年11月 経済産業省の「近代化産業遺産」に認定

米子発電所の外観の白黒写真

米子発電所(明治37年設立)
ランプによる製糸工場の火災防止と、より明るい場所で仕事ができるように発電事業が始められました

須坂商業学校の校門入口付近での集合写真

大正15年4月 越泰三を設置者として「須坂商業学校」創設
人材の育成に力を注ぎました

信陽銀行の建物外観の写真

信陽銀行の建物(明治30年設立)
他に高井銀行、墨坂銀行、高井商業銀行、産業銀行など明治28年から33年にかけて銀行の設立が相次ぎました

須坂・長野間を電車が開通した際の新聞記事

大正15年 須坂・長野間を電車が開通 
山丸組創設者越寿三郎は電車の敷設に尽力しました

日本の経済活動の舞台となった須坂

製糸業は、別名「生死業」と言われたほど、時代の経済状況に左右されました。特に大正3年不況と大正9年の戦後(第一次世界大戦)恐慌により、幾つもの製糸家が糸価の変動に翻弄され製糸業から手を引いていきました。こうして廃業した製糸工場は大倉製糸や片倉組、山丸組など全国的な規模の大企業に引き継がれていきました。大倉製糸は大倉財閥につながる大資本の系統であり、片倉組は岡谷を発祥とする製糸業出身の財閥、そして個人企業として全国一の規模を誇った須坂の山丸組も加えて、須坂はこの時期日本の経済活動に大きな役割を果たしました。

ステンドグラスの写真

ステンドグラス(須坂市指定文化財) 須坂市博物館蔵
平成19年11月 経済産業省の「近代化産業遺産」に認定

財閥大倉喜八郎を社長とする大倉製糸須坂工場の応接室と事務室の境にはめこまれていたものです。製糸業の盛衰とともに持ち主が転々とし、現在は博物館の所蔵品となっています。直径1.5メートルの円形で、中心に大倉喜八郎の最初の叙勲である勲四等旭日小授章をかたどり、その周囲に大倉家の家紋(五階菱)と糸枠、桑の葉がデザインされています。
大倉製糸の成立は大正2年10月で、大倉は生糸の海外輸出をねらって製糸工場の建設を計画していました。当時の大日本蚕糸会顧問・渋沢栄一は、大倉に“須坂の製糸王”越寿三郎を紹介。大倉は越に工場建設推進の指揮を一任し、大正7年、大倉製糸須坂工場が発足しています。
鮮やかに輝くステンドグラスは、須坂の製糸業が最も華やかであったころの面影を現在に伝える貴重な産業遺産となっています。

富士通(旧田中製糸迎賓館)の外観の写真

富士通(旧田中製糸迎賓館)

田中製糸は、明治13年創業、一時は従業員が650人にものぼり「東行社」の中核的存在として須坂の発展に貢献しました。建物は明治末期田中製糸の迎賓館として建築されたものです。大正9年の戦後恐慌の後、大正11年片倉組製糸と合併。以来片倉組の迎賓館として、昭和17年からは富士通須坂工場の施設として利用されてきました。

現在まで続く、製糸業の遺産

須坂の製糸場で働く工女は北信地方を中心に新潟県頚城地方からも募集され最盛期には6,000人を超えました。工女たちの賄いのため味噌・醤油の醸造所が多く、特に塩屋醸造所は江戸時代から続く老舗として、現在も古くからの蔵を醸造所として利用するとともに、明治期の圧搾機や江戸から明治期の桶を使用して味噌・醤油を加工し現在も営業しています。

須坂の製糸業は、昭和恐慌とともに急激に衰退しました。その失業対策事業で工女たちの遠足娯楽の場所であった臥竜公園には、竜ケ池が築造されました。公園は現在も池に水を湛え市民の憩いの場として往時を偲ばせています。

第2次大戦中には、製糸業の諸施設とともに製糸工女は労働力として軍事疎開工場に継承されました。第2次大戦後、富士通を中心とした疎開工場が須坂に定着し、今日見る電子機械部品・組立工業の集積地となりました。この背景には、製糸業時代に培われた生産管理技術や工女たちの豊富で質の良い労働力などが果たした役割が大きいと言えます。

塩屋醸造の外観の写真

塩屋醸造
平成19年5月 国の登録有形文化財となっています

塩屋醸造の内部の様子の写真

松川林間工場団地・日滝原工場団地など須坂には現在も電子機械部品・組立工業が操業しています

桜が満開の臥竜公園内にある竜ヶ池の写真

界恐慌の失業者対策事業として作られた竜ヶ池(臥竜公園)
平成19年11月 経済産業省の「近代化産業遺産」に認定

臥竜公園は大正15年林学博士本多静六の設計により作られました。昭和6年に行われた竜ケ池の築造工事は世界恐慌による失業者の対策事業として行われました。

現在は近くに動物園や博物館などの施設が揃い、春の桜をはじめ四季折々に訪れる人を楽しませています。

須坂市の産業遺産活用に向けた取り組み

平成元年 伝統的建造物群保存対策調査
平成4年~ 歴史的地区環境整備街路事業
平成5年~ 須坂地区歴史的景観保存対策事業
平成7年~ 街なみ環境整備事業
平成13年 「須坂の製糸業」発刊
平成16年 産業考古学会による須坂の製糸遺産施設視察
平成17年 国際会議「産業観光国際フォーラム in 愛知・名古屋」において「須坂市の製糸遺産と蔵の町並み保存と観光への活用について」発表
平成17年 ヘリテージングバスツアーを行い小学生対象に近代遺産を訪ねるツァーを実施
平成18年 産業考古学会全国大会(須坂大会)の招致開催。学会報告会、市民向けの講演会、市内産業遺産ウォーキングを開催
平成19年 経済産業省「近代化産業遺産」に須坂市の製糸関係遺産が認定されました

産業史や地域史の物語性を軸に複数の遺産で構成する「近代産業遺産群」を経済産業省が取りまとめました。近代化産業遺産が持つ価値をより高め、地域活性化に役立てることを目的にしています。

認定された須坂の遺産

「『上州から信州そして全国へ』近代製糸業発展の歩みを物語る富岡製糸場などの近代産業遺産遺産群」の中で、「須坂市の製糸関連遺産」が認定されています。

こどもが行事で練り歩いている現在の須坂の様子の写真

輝く須坂の未来へ

参照

「須坂の製糸業-その成立期の歴史と風土-」平成18年産業考古学会講演資料 青木廣安氏
「須坂の近代化産業-転換モデルを中心に-」(須坂市作成資料)
「須坂の製糸業」平成13年発行

この記事に関するお問い合わせ先

社会共創部 文化スポーツ課
所在地:〒382-8511 長野県須坂市大字須坂1528番地の1
電話番号:026-248-9027 ファックス:026-248-8825
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