
奇妙山石仏群と千体仏
きみょうさんせきぶつぐんとせんたいぶつ
指定区分 | 須坂市指定有形文化財 |
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所在地 | 須坂市大字亀倉424番地 |
所有者氏名 または名称 |
奇妙山石仏群 長野営林署 千体仏 萬龍寺 |
米子山国有林内に亀倉萬龍寺開山但唱上人の木食行信仰遺跡がある。遺跡は、大巖の岩窟と浮島といわれている。
岩盤が但唱が12年間こもって、木食行をしながら刻んだ各種石仏や修験用具などの石造物が散在している。
木食行に入って12年護摩供養のかたわら、石仏、千体木仏を彫る苦修難行を行い、寛永2年(1625)大願成就して石仏と千体仏の二大供養を行ったといわれている。のち、但唱は高輪に如来寺を開基、如来寺が寛永寺直末となったとき但唱と天台宗との関係がはじまった。
この但唱上人のこもられた岩窟と浮島の石仏群と木食行の中から念仏とともに仏像を掘り出す木食行の念仏聖で、名号の心(初相弾誓の心)を仏の姿(弾誓の姿)として残し、人々を救済するのが目的で作られた千体木仏で、歴史・文化を認識するうえでも大変貴重な文化財。
千体仏
萬龍寺本堂の護摩壇(ごまだん)の奥には、高さ15センチほどの木仏が、8段の棚にびっしりと並べられており、平成14年6月末の調査では、1058体の木仏が確認されています。
江戸時代初期の修行者、但唱(たんしょう)上人(1579~1641)が、慶長16(1611)年頃から奇妙山にこもって木食行(もくじきぎょう)(草の根や木の皮だけを食べる)に耐えながら民衆の救済を願って、石仏とともに木仏を千体刻んだと伝えられます。
元和3(1617)年、亀倉町の現在地に萬龍寺が移転建立された際、木仏はここに安置されました。寛永2(1625)年、大願成就した但唱上人は、石仏と千体仏の二大供養を行い、その後は伊那谷を経て江戸に移り、高輪(たかなわ)に如来寺を建てました。
明治時代の初め、萬龍寺は周辺の村々の子供達が学ぶ学校にもなりました。そのため、千体仏は子供達のおもちゃにされたこともあるそうです。
また、子供を亡くした母親が亡き子を弔うため持ち帰ったとされ、あるいは女性が子授けや安産を願い、持ち帰って祈願し、願いがかなうと、もう1体を作って寄進したと伝えられています。このため、現在残っている木仏のほとんどは寄進によるもので、但唱上人が刻んだ当時の木仏は数体から十数体のみ残っていると言われます。
当時のまま残っている木仏はわずかではありますが、1体1体に込められた祈りや願いが今なお大切に残されています。
奇妙山石仏群の所在地
須坂市大字米子国有林86・チ・リ・林小班(米子町)
千体仏の所在地
須坂市大字亀倉424番地 萬龍寺
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