よくある質問とその回答
Q. 須坂の町並みの特徴は
須坂は、明治から昭和初期にかけて製糸業によって栄えた町で、最盛期の大正初期には、 6,500人の製糸工女が居住し、彼女達が歌った野口雨情作詞・中山晋平作曲の「須坂小唄」は当時日本全国に流行しました。この時代に建てられた豪壮な土蔵の町家が多数残っていることは、最近まで一般に知られず、もちろん地元市民には周知のことでありましたが、ながく見慣れてきた風景なのでとりたてて評価を論じられることはありませんでした。
しかし、昭和60年代前半から須坂の土蔵造りの町並みの魅力は、他の地域の人にも広く知られるようになってきました。
その発端は、昭和60年 地元新聞に100回にわたり連載された「須高地方の民家と町並み」(絵と文章)で、須坂の町並みと民家の美しさやその背景にある歴史と生活を、地元市民に広く認識されることとなりました。ついで、昭和61年には須坂の歴史的な町並みの保存を目的とする「信州須坂町並みの会」が市民有志によって結成されました。この会は「町並みかわら版」や「信州須坂町並み案内絵図」の刊行、また町並みフェストなどの見学会を行うなど、町並みの価値を広く知ってもらうことに努力されてきました。更にこれらの出版や見学会、幾たびかのテレビ放映などによって、須坂を訪れる市外県外の人々も増加し、須坂の町並みの価値は全国的に評価されるようになりました。
このような中、昭和63年に日本ナショナルトラストに依頼し「信州須坂の町並み調査」を行い、平成元年には文化庁の支援で「伝統的建造物群保存対策調査」を実施しました。
この調査結果によると、
①土蔵造りの町並みの主屋だけでも相当な数で、特に十字型の旧街道筋に集中しており、すでに土蔵造りの町として全国的に有名な 各地に劣らないこと
②土蔵造りの建物の色彩、意匠、屋根の形などが変化に富み、非常に魅力的であること
③土蔵造りの町家以外にも、明治・大正時代の洋風建築や江戸時代の寺社建築の優れたものが町家の町並みに接した場所に残り、ま た須坂藩の武士の住まいも残っていること
④緑と水に恵まれた住み良い町であること
などが高い評価を受けました。
また、江戸時代から市街地形成されていた北国街道の裏街道である大笹街道と谷街道が交差する十字型町通りに土蔵造りの建物が集中し、その数は調査しただけでも対象面積約80haの中で 347棟(所有者別)に達しました。