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【開催中止】歴史文化講座(講演会)「須田満親の生涯」

●新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、歴史文化講座(講演会)「須田満親の生涯」は中止いたします。
ご理解ご協力をお願いいたします。

チラシ裏
※チラシは、こちらからダウンロードできます
チラシ表面(1,10MB) チラシ裏面(790KB)

須坂市立博物館・文書館・旧上高井郡役所・市立須坂図書館連携事業
生涯学習推進センター「須坂市民総合大学」公開必修講座
 

信州須坂・本郷出身の戦国武将
上杉景勝の重臣として活躍
歴史文化講座(講演会)『須田満親の生涯』

 

 織田信長が天下統一をすすめる1500 年代後半、上杉景勝
の重臣として活躍した戦国武将 須田満親は、信州須坂・本
郷の出身です。
 2020 年NHK 大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公 明智光
秀が、天正10 年(1582)信長を討ち滅ぼした「本能寺の
変」の直前に、当時上杉方越中軍の司令官であった須田満親
へ密使を派遣したという説があります。内容は、上杉方に
協力を求めたものでした。
 その後、信濃へ戻り海津城(松代城 長野市)将となった
満親には、景勝から大幅な権限が委譲され川中島四郡の治世
を託されました。満親が景勝から絶大な信頼を寄せられてい
たことがわかります。
 後年、景勝は豊臣秀吉から会津移封を命じられましたが、
満親は、家督を次男長義に譲り、会津には行かずに亡くな
っています。家督を継いだ長義は、梁川城将(福島県伊達
市)となり、功績を残します。
 本講演会は、川中島の戦いで武田信玄に大岩城(須坂市
本郷)を攻められ、越後へ逃れた満国・満親(親子ともい
う)が上杉傘下の将となり、後年、景勝の側近となった満
親が、卓越した政治外交能力で織田信長・柴田勝家・豊臣
秀吉・徳川家康などの戦国大名や15代室町幕府将軍 足利
義昭、一向宗門徒等とも密接に関わり活躍したその生涯を
辿ります。
 
◆日時   令和2年(2020年)3月20日(金・祝)
        午前10時から午前11時30分(予定)

◆会場   須坂市中央公民館(3階ホール)
※中央公民館駐車場は限りがございますので、満車の場合は、
係員の指示に従い周辺公共施設等駐車場へ駐車してください。

◆講師   長野県立歴史館 専門主事兼学芸員
            史学博士 村石正行氏

◆入場料  無料(事前申込不要) ※どなたでも参加できます。

 激動の戦国時代を生き抜いた須田満親の生涯を一緒に辿ってみませんか。
 皆さまのご来場をお待ちしております。

2020年オリジナルカレンダー「信州須坂・本郷出自 戦国武将 須田満親」
(須坂市立博物館ボランティア会製作)好評発売中です。
 
【須田氏の発祥】
須田氏は、平安時代高井郡井上を名字にした井上一族から分かれた
武士と言われ、鎌倉時代は井上氏とも同族関係を保っていたようです。
南北朝・室町時代になると次第に独立性を強め、戦国時代は上高井地
方の市川(百々川)をはさみ、南を井上氏、北を須田氏が領有し、松
川をはさみ、北を高梨氏が領有する構図となりました。室町期には、
米子・米持・中島・福島などへも勢力を拡大しました。
 
【川中島の戦い】
川中島合戦のころには、惣領家(須田郷須田氏=臥竜山須田氏)と
庶子家(大岩郷須田氏=大岩須田氏)は、互いに勢力を競い合うよ
うになりました。武田晴信(信玄)の北信濃侵攻に対して臥竜山
須田氏は武田方につき、福島城将となりました。大岩須田氏は武田
勢に攻められて大岩城は落城し、満国・満親は長尾景虎(上杉謙信)
を頼って越後に逃れ復帰をめざします。
 
【越中松倉城将】
謙信没後、上杉家の家督争い(御館の乱)での活躍で景勝・直江兼続
の信任を得た満親は、天正9年(1581)、対織田軍との最前線である
越中松倉城将(富山県魚津市)となり、指揮官として活躍しました。
天正10 年(1582)信長が「本能寺の変」で討たれる直前、明智光秀
は事前に須田満親に密使を送り協力を求めたとする説があります。
満親は、信長の死後、室町幕府15 代将軍だった足利義昭が推す柴田勝
家の勢力と羽柴秀吉の陣営の双方から働きかけられるなど、外交交渉
の要な窓口として手腕を発揮しました。
 
【海津城将1万2千石】
天正13 年(1585)、満親は川中島四郡1 万2 千石を治める海津城
(松代城)将として本貫の地「北信濃」へ戻って来ました。景勝から
警察・交戦・外交権など大幅な権限を委譲さ
れています。景勝と真田昌幸との仲介を行い、真田家の人質を春日山
へ送りました。天正16 年(1588)景勝の豊臣秀吉への謁見に従った
満親は、直江兼続とともに秀吉から豊臣姓をもらい、翌年、後陽成
天皇から「従五位下・相模守」の叙位任官を受けました。
 
【その後の須田氏】
慶長3 年(1598)、秀吉は景勝の会津(120 万石)への国替えを命
じました。満親は、国替えの業務を石田三成の指示のもとで滞りなく
おこないました。家督を次男長義に譲り、この年に松代で亡くなりま
した。家督を継いで会津に移った長義は、梁川2 万石(福島県伊達市)
の城将となり、伊達政宗に対峙する重要な役割を果たします。慶長5
年(1600)、関ヶ原の合戦で景勝は石田三成と連携して山形で最上・
伊達各氏と戦いました。敗戦後米沢30万石へ減封されました。長義は、
3分の1の6千6百石となりましたが、そのまま梁川城将としての地
位に置かれました。慶長19年(1614)、「大坂冬の陣」で長義は
徳川方に属し軍功をあげ、将軍秀忠から感状と刀をもらっています。
主家に従い米沢へ移った須田氏は、その後(江戸時代)も代々江戸
家老などの要職を務めました。安永2年(1773)、上杉治憲(鷹山)
の藩政改革をめぐる家臣団の建白(七家騒動)の中心の一人として
処断されますが、その後復活し明治維新を迎えます。現在でも会津
若松市、米沢市、伊達市周辺には、須田姓がみられます。

(最終更新日:2020-02-26)

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TEL:026-245-0407
FAX:026-214-5548
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