旧園里学校(園里郷土資料館) きゅうそのさとがっこう(そのさときょうどしりょうかん)

カテゴリ: 明治時代 豊丘 建造物・伝統的建造物群 市指定有形文化財 所有者氏名または名称:須坂市 観光スポット

白壁に黒い瓦屋根が乗った洋風と和風が融合した旧園里学校の校舎が、青空の下に建っている写真

旧園里学校の校舎は、もともとは1883(明治16)年に当時の上高井郡園里村立園里学校として新築されたものである。

園里学校の起源は、1872(明治5)年8月に学制が制定された翌年、小山村の止善学校の支校が、灰野村(※①)の地蔵堂の建物を利用して開かれたことに始まる。
この際に建てられた校舎が、1877(明治10)年11月5日に焼失したため、校舎の新設を計画した。新校舎は翌1878(明治11)年に完成し、学校名を「競進学校」として開校した。1882(明治15)年には、新学制小学校令が定められ、競進学校は園里村立園里学校と改名した。
翌明治16年には既存の校舎だけでは手狭となり、新たに二階建ての校舎が新築された。日本建築を基礎としつつ、西洋建築のデザインを取り入れた「擬洋風建築」の校舎である。なお明治11年の旧校舎は1962(昭和37)年に取り壊され、跡地に須坂市豊丘地域公民館が建っている。

旧園里学校の二階建ての主屋の建築様式は、外壁が土蔵造り、屋根は桟瓦葺(さんかわらぶき※②)の寄棟造(※③)であるが、様々な箇所に西洋建築の様式が用いられている。
主な箇所と挙げると、次のようになる。
正面入り口には玄関ポーチが設けられているが、その柱は円柱に縦の溝を刻み込んでおり、ギリシャ式の円柱を模したものである。その上にのる柱頭もギリシャ式柱頭と日本の大斗(※④)を折衷させたような形をしている。
一方で、円柱をつなぐ虹梁(※⑤)と軒下の雲の彫刻は、神社・仏閣の建築に使用される形である。さらにこの玄関ポーチの上の六角形平面の太鼓楼がのっているが、これは寺院建築の系統に属する。
外壁では、四隅の角に漆喰を盛り上げて黒く塗り、石積みを模した装飾を付ける。これは西洋の中世建築に用いられたもので、隅石(quoin)と呼ばれている。
窓は縦長で外側は両開きの鎧戸、内側は上下式の障子を用いており、西洋式の窓を模している。窓枠と鎧戸は緑色のペンキ塗りである。ただし正面入り口の戸は、日本式の横引き腰板付き障子である。
なおこの校舎を建てた大工棟梁は不明であるが、地元の人物とされている。
こういった「擬洋風建築」は、明治維新から明治10年代にかけて、日本各地の官庁、学校などの公共建築に用いられた。

旧園里学校の校舎は、このような明治前期の建築様式の特徴をよく示すものであることから、1993(平成5)年に須坂市の指定文化財に指定された。現在の校舎は、1991(平成3)年から1992(平成4)年にかけて、建設当時の様式に近づけ、ほぼ完全な形に復元したものである。

須坂市指定 有形文化財(1993〔平成5〕年4月1日指定)

※①灰野村…1875〔明治8〕年に坂田村と合併して園里村となった。
※②桟瓦葺…丸瓦と平瓦が一体になった桟瓦で葺いた葺き工法。現代の瓦屋根の一般的な葺き方。
※③寄棟造…建築物の屋根形状の一つで、4方向の屋根面を有する屋根。
※④大斗…社寺建築の枡組の中で、最下にある大きな斗(ます)。柱のすぐ上にある。
※⑤虹梁…日本建築で、中央が反り上がって弧状になる梁(はり)。

参考 有限会社信濃伝統建築研究所『須坂市指定有形文化財 旧園里学校復元修理工事報告書』(1995〔平成7〕年3月)、『須坂市誌 第二巻 地誌・民俗編』(2014〔平成26〕年3月)

所在地

須坂市大字豊丘1076番地

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