俊明社跡 しゅんめいしゃあと

カテゴリ: 明治時代 須坂 史跡・名勝・天然記念物 市指定史跡

白い三階建ての建物と、その前にある電柱、そして手前の舗装されていない駐車場に駐車されている黒いワンボックスカーと掲示板を撮影した俊明社跡地の写真

俊明社は、須坂町に設立された日本初の製糸結社である東行社より分離設立した、製糸の共同組織である。

1878(明治11)年5月に、共同揚返所(※①)を新築し、品質を揃えて出荷できる体制を整えつつあった東行社内に、一部社員の脱退の動きが表面化してきた。
1879(明治12)年、青木松之助、清水春右衛門など、当時七人衆と呼ばれた人物たちが脱退し、信正社を設立した。その4年後、東行社創立の際に中心的な役割を担った小田切辰之助が、病身の弟に代わり自家の製糸場を継いだことを機に東行社を脱退し、1884(明治17)年6月に俊明社が結成された。
創立当時の俊明社は、社員わずか10人、工女300人余、製造高1543貫であったが、翌18年には社員28人、工女800人、製造高4313貫になったという。

東行社と俊明社は製糸の改良・進歩を競い合いつつも、協力・強調して事業を進めた。1891(明治24)年には両社協議の上で賞罰・糸繰賃などを同一にしたほか、共同事業として製糸用水のための簡易水道の敷設を行った。
また1910(明治43)年には、製糸工女に腸チフス患者が増えたことにより、東行社は従来設立の須坂病院とともに伝染病舎を、俊明社では太子町に病院を設立した。

後に山丸組を結成し、「製糸王」と呼ばれた越寿三郎は、はじめに俊明社に加盟し、1894(明治27)年には31歳の若さで俊明社社長に就任している。

各工場の経営規模が大きくなるにつれて、大量生産が可能になると、結社から独立して「組」(匿名組合※②)を作る動きが出てきた。越寿三郎が結成した山丸組は、はじめは俊明社から独立せずに経営規模を拡大したが、1925(大正14)年には再繰所を設けて独立した。

その後、俊明社は東行社と同様に、大戦や恐慌による影響を受ける。1941(昭和16)年の真珠湾攻撃に伴う日本・アメリカ間の関係悪化により、生糸輸出が停止され、生糸の多くは輸出から軍需用品に転用された。
また翌年には、平和産業を軍需産業へ転換する方針が定まり、俊明社再繰所には東亜軽飛行機株式会社が疎開してきた。その結果、須坂の器械製糸場は、2工場が残るのみとなった。

俊明社跡は、字六角堂、字芝宮にわたる広い地籍であるが、現在は住宅地になっている。2007年には東行社跡とともに、須坂の製糸業を象徴する地として経済産業省の「近代化産業遺産」に認定された。

須坂市指定 史跡(1970〔昭和45〕年5月25日指定)

※①揚返…小枠に巻き取られた糸が湿気でくっつくことを防ぐため、小枠に巻き取った生糸を乾燥させながら大枠に巻き直す作業のこと。
※②「組」(匿名組合)…組合員が経営者の営業のために出資し、それは経営者の財産となる。組合員は、経営者が営業において利益を得た場合は配分を受け、損失を出した場合は損失を被る。一族、親戚で組織される。

参考 『須坂の製糸業 ―生糸の歴史・技術・遺産』(2001〔平成13〕年3月)、『須坂市誌 第五巻 歴史編Ⅲ』(2016〔平成28〕年3月)

所在地

須坂市馬場町

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