須坂藩13代藩主 堀 直虎
いきいきすざか
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須坂藩13代藩主 堀 直虎 (ほり なおとら)

誕生・時代背景

 堀直虎は天保7年(1836)須坂藩11代藩主堀直格の五男として、江戸藩邸で生まれました。母は遠江(とおとうみ)(現在の静岡県西部)横須賀藩3万5千石の大名西尾家の娘でした。直虎はこの母の愛と文武に優れた父の資質を受け継いですくすくと成長しました。直虎が生を受けたのは、長い鎖国の時代を経て日本が世界情勢の動きの中に大きな変革を予感させる時代でした。直虎の生まれる11年前の文政8年(1825)には「異国船打ち払い令」が発せられ、3年後の天保10年(1839)には「蛮社の獄」が起こり、渡辺崋山や高野長英など外国船の打ち払いに反対した人たちが罰せられ命を落としました。資源と商品市場を求めてアジアに進出したヨーロッパやアメリカによる開国要求が次第に強まっていく頃でした。

生い立ち

 直虎は幼い頃から利発で、学問や武芸に励みました。当時の大名家の教育は厳格なものでした。漢学(四書五経を経典とする中国の儒教など)、国学(古事記、日本書紀、万葉集)、武術などを幼い頃から学び、他に蘭学を勉強することもありました。直虎の漢学の師は亀田鶯谷(おうこく)と言って漢学者ではありましたが、和魂漢才つまり漢学を学んでも日本のこころを忘れてはならないと説き、直虎はこの師の影響を強く受けていたと言われています。書道は幕末の三大書家と言われた市川米庵に師事、直虎の書は現在も各所に残りその能筆ぶりを目にすることができます。剣術は江戸にその名を知られた直心影流の「男谷道場」で修業しました。直虎は学問や武門に励み青年期を迎えました。
※男谷道場は勝海舟(直虎よりも13歳年上)が通った道場で、幕末を扱った時代劇や小説(父子鷹:子母沢寛著作など)で名前を知られています。


直虎の書   直虎肖像
直虎の書
藤良山:直虎は良山と号した。
藤は藤原の略。堀家は藤原氏を嫡流としている。
  堀直虎肖像(写真)
直虎は、西洋の技術を取入れることに積極的であった。この写真は写真機を購入し自ら写したものと伝わる。

黒船来航

 嘉永6年(1853)直虎が17才の時、浦賀沖にアメリカのペリーの乗った黒船が来航しました。若い直虎がどれほど衝撃を受けたかは想像に難くありません。その頃直虎は蘭学や西洋式の兵学砲術を学び、特に兵学砲術の師であった南郷茂光と赤松小三郎からは大きな影響を受けていました。南郷の著した英国歩兵練兵書に序文を書き、直虎自身が英国騎兵練兵書の翻訳に取り組んだと言われています。黒船到来の後、直虎は当時藩主であった兄直武に「警備策」を進言しました。「警備策」には国防の大切さと、西洋の武器の必要なことを説き、須坂藩の兵隊をオランダ式にして号令をかけました。直虎が藩主となっていた慶応元年(1865)にはイギリス式に改革しています。直虎は衣服も西洋風に改め、陣羽織の裏にパンをしのばせて非常時に備えていたそうです。また写真機を買って写したり、自分のことを英語でStraight Tiger(直虎)と称したりしたので、人々は直虎を「唐人堀」と呼びました。

須坂藩13代藩主となり 藩政改革を行う

 文久元年(1861)、須坂藩12代藩主兄直武が隠居し、直虎26歳で須坂藩13代藩主に就任します。藩の人心を一新するとともに、財政難から御用金政策に頼り領民を苦しめていたことから「新民処置」を出し、この年の租税を免除、藩の貸出金の棒引き・御用金・献金残り分免除の三ヵ条を言い渡しています。
 安政5年(1858)には幕府はアメリカと「日米修好通商条約」を結び、日本は諸外国と本格的に貿易を進めて行くことになりました。


追放通達
直虎が家臣丸山次郎本政に送った密書
藩政改革で罰せられた家臣団の罪状を報告すること、処分議定をすること。
追放する家臣を通達するように指示している。
幕末の動き
出来事
嘉永6年(1853)
6
ペリー来航
安政元年(1854)
3
日米和親条約
安政5年(1858)
6
日米修好通商条約
9
安政の大獄(~1859年)
万延元年(1860)
3
桜田門外の変
文久元年(1861)
10
和宮降嫁
文久3年(1863)
7
薩英戦争
元治元年(1864)
6
池田屋事件
7
禁門の変
7
長州征討(1次)
8
四国艦隊下関砲撃
慶応2年(1866)
1
薩長同盟
6
長州征討(2次)
慶応3年(1867)
10
大政奉還 討幕の密勅
12
王政復古の大号令
慶応4年(1868)
1
鳥羽・伏見の戦い
3
五箇条のご誓文
4
江戸城開城

大政奉還後、若年寄兼外国総奉行となる

 文久3年(1863)イギリス艦隊と砲戦を交えた薩英戦争や、元治元年(1864)にはイギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国連合艦隊が下関の砲台を攻撃した四国連合艦隊下関砲撃事件が起り、西欧の兵力や技術力を日本に見せつけ、攘夷の不可能を悟らせる結果となりました。薩摩藩や長州藩など有力諸藩では、こうした動きの中で列強に対抗できる統一政権こそが必要であるとの考えから、討幕に向けて連携するようになって行きました。
 直虎が若年寄兼外国総奉行を命じられたのは慶応3年(1867)12月5日のことでした。すでに徳川慶喜は大政奉還を行い、12月9日に朝廷は「王政復古の大号令」を発して、天皇を中心とする新政府の樹立を宣言します。これにより幕府や将軍、摂政・関白が廃止され、新たに総裁、議定、参与の3職がおかれることになり、総裁に皇族、議定には皇族・公家・諸大名、参与には岩倉具視や土佐の後藤象二郎、薩摩の西郷隆盛や大久保利通などが任じられました。さらに慶喜に対して、官位辞退と領地返納を命ずる処分案が出され、これに反発した旧幕府側が翌4年1月3日、京都に向けて進撃し、鳥羽・伏見で破れるという結果になりました。戊辰の役と呼ばれた新政府軍と旧幕府軍との戦いのはじまりでした。

激務に耐えて

 鳥羽・伏見の戦いに敗れた慶喜は大阪から江戸城へと戻りました。しかし幕府の将兵をそのままにして自分だけ逃げ帰ったかのような慶喜の江戸城帰還には批判が集中しました。その時直虎が任命されていた若年寄とは、老中に次ぐ重職で将軍に直属し旗本御家人を統括する任務でした。外国総奉行は、安政5年に創設された役職で、通商貿易その他諸外国との対応を司る役職でした。藩主直虎自ら学んでいた洋学の見識が買われ、この抜擢につながったと言われています。直虎は旧幕府重臣として幕府存続の方策を探り、また新政府軍との戦いを目前にして連日、今後の善後策について意見を戦わせました。
 この激動の中にあって、直虎は旧幕府側の重責を担い激務に耐えました。年が明けて、慶応4年1月10日朝廷より討幕の命令が下り、官軍は江戸に向け兵を進めてきました。江戸城では連日会議がもたれました。討幕軍と戦うか、朝廷と新政府に従うか。旧幕臣の間では薩長を中心とした新政府に反発があり、討幕軍と戦うという意見に対し、慶喜は交戦を望まない姿勢であったとされています。14日には直虎の親友であった山内豊福が苦悩の末夫人と共に自刃し直虎は心を痛めました。

山内豊福

 土佐藩山内家の分家1万5千石の大名、慶応3年には直虎と連名で紀伊中納言宛に大政奉還や王政復古についての意見書を出した。直虎と親しい仲であったが、豊福の本家の土佐藩が慶喜に大政奉還を建白の後、討幕側に回ったため、豊福は土佐藩の意向と自らの勤王佐幕の願いとの板ばさみとなり夫人と共に自害しました。

自刃の日

 1月17日、若年寄である直虎は会議の席上、慶喜に何事かを言上。その内容については未だ不明ですが、その後直虎は江戸城において自刃し生涯を閉じました。33才でした。自刃の理由について諸説ありますが、挙兵して薩長と戦うように進言したが聞き入れられなかったため、またそれが将軍に盾突くことになったので自害した、または勤皇と徳川の板ばさみになって煩悶の末の自害であったとも言われています。親友山内豊福の自害から3日後のことでした。
 直虎自刃の日のことを、当時須坂藩江戸藩邸下屋敷に仕えた清水かつ子さんが次のように語っています。
「18日の朝、いつも通り大殿様(父直格)が手洗いに大表に出られましたが、十時過ぎまでお部屋にお帰りがないので、不思議に思っていました。そのうちに駒澤貞治様が奥へ入り、上屋敷から急な使いが来たとのお話でした。その前に殿様(直虎)にはご病気のことがおありでしたからやはりそれでしょうかと噂をしました。そのうち大殿様が奥へお入りになり、女中部屋の前をお通りになるとき、大奥(直虎の母)を呼べとのお言葉がありました。間もなく大奥様が上屋敷におでかけになりました。お輿はごく質素でお供は医者と女中と籠側くらいでした。一泊してお帰りになりました。臣下の方には大体のことがわかっていたでしょうけれど、女中部屋のほうには何のことかわかりませんでした。一ケ月くらいたってから上屋敷の奥様(直虎の妻)が下屋敷にお移りになったので、お城でのご自害のことを知ったのでした。殿様は17日のご出立には下は白装束、刀までおそろえになり、お覚悟の上(だった)と思われます。お書置きもあって、一同がそろった席で家老が読み上げましたがみな頭が上がらなかったといいます。
 大奥様が上屋敷にお着きになるまで、江戸城からの遺骸をのせた輿はそのまま手をつけず、大奥様がお出でになってはじめて戸をあけてご覧になったそうです。大奥様は「よく死んでくれた。」と一言。それで戸をお閉めになりました。慶喜公にさからったので切腹しなければお家断絶とのお話でした。ご自害の理由は女中にはわかりませんでした。大奥様は西尾隠岐守様からのお輿入れでした。西尾家は7万石(3万5千石)。堀様のご縁組はいつも格上の方で、これは堀様のお家の格がよかったためです。-現代文訳-」


直虎自刃の日の書簡   軍扇
直虎自刃の日の書簡 
今夜は泊まりになるので供の者は帰せ。迎えは明日昼頃くるようにと記している。
  亀甲卍の堀家の家紋が入った軍扇
(須坂市博物館所蔵)

須坂藩その後

 直虎の遺骸は、江戸の赤坂にあたる種徳寺に運ばれ葬られました。現在、直虎は種徳寺と須坂市の興国寺(臥竜山にある御霊屋)に祀られています。
 直虎が没してから3ケ月後、慶応4年3月14日勝海舟と西郷隆盛が会見し、4月14日江戸城無血開城され、徳川慶喜は水戸へ退去しました。9月には年号が明治となり、新政府が確立されました。
 直虎の死後、藩の廃絶を恐れた須坂藩では協議の末、藩存続の命運をかけて討幕軍に参加することになりました。慶応4年3月小林季定を隊長として兵を送り下野と下総において旧幕府方と戦い、4月清須勝祥は飯山に出兵後越後を経て会津に至りそれぞれに戦功をあげました。これにより5月太政官より直虎の弟直明の14代藩主相続が許されました。しかし明治2年(1869)6月須坂藩の版籍奉還が認められ、直明は知藩事になり、明治4年(1871)7月廃藩置県により須坂県知事となりますが、明治4年11月長野県に合併、直明は男爵となり、東京に移り住みました。
 直虎の死から56年後の大正13年(1924)、宮内省から直虎に「従四位」が贈られ、朝廷に対する忠節が顕彰されました。
 奥田直政を祖とする堀家は、明治10年2月に旧姓の奥田を名乗ることとなります。明治14年旧須坂藩家臣を中心に藩祖堀直重と直虎を祀る「奥田神社」を須坂藩居館跡地に造営。併せて戊辰戦争の戦没者を祀る招魂社も臥竜山山頂から移されました。


奥田神社 堀直虎御霊屋 臥竜山
奥田神社
初代須坂藩主 堀直重と堀直虎を祀る
堀直虎御霊屋 臥竜山 明治2年建立


自刃にまつわる諸説

1.恭順説 天皇を頂いた新政府には逆らわず、江戸城を開城する。
「片岡志道見聞録」「須坂藩勤皇録」「碧血録」
2.抗戦説 天皇には勤皇の意を示しても、薩長を中心とした新政府とは戦い徳川幕府を存続する。「野平野平日記」
3.病気説 勝海舟は直虎は病気であったと語っている。「勝海舟海難録」


※参考文献
碧血録  富田松北著
堀直虎公伝  岩崎長思著
須坂市史  須坂市
改訂須坂藩主堀家の歴史  広瀬紀子編著
郷土の華   岡澤主計編著
氷川清話 付勝海舟伝 勝部真長編  角川文庫
高等学校地歴教科書 日本史B  東京書籍


■広報すざか 平成29年2月号で特集しました。
 須坂藩13代藩主 堀直虎【PDF形式:691KB】
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